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連載:監督として生きる

東医保大・恩塚亨HC(中)「三足のわらじ」生活、肉体的にはギリギリでも心は充実

初代東医保大女子バスケ部の学生はたった5人だった

インカレ初出場からわずか5年。東京医療保健大学女子バスケットボール部は、2017年に頂点まで駆け上がりました。18年には連覇をなしとげます。そもそも06年に創部されたばかり。華々しいスタートに見えますが、実情はそうでもありませんでした。連載「監督として生きる」の第5弾は、このチームを率いる恩塚亨ヘッドコーチ(HC、39)の指導者人生を振り返ります。その2回目です。

東医保大・恩塚亨HC(上) 県大会初出場に親から抗議、行き場をなくした熱意

期待の選手が金髪で入部

記念すべき初年度の部員は5人で、1人はバスケ未経験者だった。週3日の練習すらも敬遠され、選手2人と恩塚氏の計3人で練習する日もあった。ボトルに水を準備、補充するのは恩塚HCの役割だった。

それでもチームは関東大学リーグ4部からスタートし、創部から3年で2部に昇格するまでに成長した。筑波大卒業後に7年間勤めた有名私立高校では、子どもたちを勉学に集中させたい保護者の反対で満足な指導ができなかった。学生が精神的に自立する大学でなら、自分と選手たちがともに求め合い、高め合いながらバスケと関われるかもしれない……。恩塚HCはそんな期待を抱いて部を立ち上げたが、選手たちとの間にはまだまだズレがあった。

10年には高校時代に全国大会を経験した選手が初めて入部してきたが、彼女は練習の初日に金髪で現れ、恩塚HCを仰天させた。「練習時間を増やすことを納得させるために、ファミレスで2時間くらい話し合ったこともありました」。恩塚HCは懐かしそうに振り返る。

意欲のある部員にそうでない仲間の背中を押す役割を手伝ってもらいながら、チームとしてのモチベーションを高め、12年には本気でバスケを頑張るためにやってきた学生が多数入部。金髪で初練習に現れた選手が3年生になった年に1部昇格、そして翌年にはインカレ3位という成績を残した。

自ら売り込み、自費で代表チームに帯同

創部した年の冬からは、別機軸の試みにも同時に取り組んだ。高校で教えたときの実績が県大会出場のみという心もとなさから、恩塚HCは自らのキャリアアップを兼ねた新しい強みがほしいと考えた。そして、女子の日本代表チームにアプローチをかけた。

アメリカのバスケ界には「ビデオコーディネーター」という役職がある。試合の映像を撮影・分析し、コーチに助言するのが役割。これを経て、コーチとしてのキャリアをステップアップさせる人も多い。日本にも同じような役職を持ってこられないだろうかと考えた恩塚HCは、日本協会に連絡をとった。シンガポールで開催されるU21女子日本代表の国際大会に帯同させてほしいと、部の設立のときと同様に“企画書作戦”に出た。

協会で担当者と面会すると「いいアイデアだが予算がない」と言われた。恩塚HCは引き下がらない。「問題はお金だけですか? 」と問いかけ「イエス」の返答を得ると、渡航費・宿泊費などの一切を自腹で出すことを条件に帯同が認められた。そして07年の北京五輪アジア予選からは正式なスタッフとして迎え入れられ、現在は女子日本代表のアシスタントコーチとして活動している。

多忙を極めるも心は充実

日本を代表するコーチたちと寝食や喜怒哀楽をともにした日々は、恩塚氏に大きな気づきをもたらした。

「一番強く感じたのは、みんな同じ人間なんだなということでした。キャリアのあるすごいコーチは、自分とは別世界で生きてると思ってたんですけど、自分と同じように悩み苦しみ、努力してたんです。とくに衝撃的だったのは、中川文一さんの言葉。『俺にはライバルがいない。まわりはみんな休むことばかり考えているけど、俺は毎日バスケットのことを考えてるから、そういうやつらには負けないと思う』と。できる人はどうやったら課題をクリアできるかしか考えてない。才能や環境といった、できない理由のことなんて何も考えてないんです」

強い情熱をもって部を創設はしたが、恩塚HCは揺れていた。一体どこまでやればチームは強くなるのか。そもそも自分にコーチとしての才能がどれだけあるのか……。しかし名将たちと語り合い、吹っ切れた。大切なのは自分が何をしたいか。そして、それを達成するにはどうすればいいかを考え、どれだけのエネルギーを注げるか、しかない。そう気づいた恩塚HCは、いままで以上にバスケにのめり込んでいった。

恩塚HCは毎日バスケのことを考え、選手たちと向き合ってきた

とくに高校教員、大学コーチ、日本代表スタッフと三足のわらじをはいた10年ごろまでの生活は熾烈なものだった。高校に早朝出勤してその日のタスクを片付け、授業が終わったら都内に移動し、18時から大学を指導。帰宅後は試合のビデオを見て、深夜に就寝。「10年の世界選手権予選のときは、2~3カ月くらい車中泊をしてました。車の中に空気清浄機を持ち込んで、お盆の上で食事して。久しぶりに家に帰ったら『ここは3カ月後に取り壊します』という通知が届いてて、あわてて引っ越しました(笑)」。肉体的にはギリギリだったが、心は充実していた。

高校教員をやめ、大学の教員となった後も女子日本代表のスタッフとの両立は相変わらず続けている。なぜ二足のわらじを選んでいるのか。そう恩塚HCに尋ねると「なんでかな……」とひとしきり考え込んだ後、答えた。

「簡単に言うと、どちらもやりがいがあるから。でも、その中心にあるのは、必要としてもらってる気持ちに応えたいという思いです。それが自分の一番好きなバスケットですから、どんなハードワークでも乗り越えられるということだと思います」

自らのスタンスに悩んでいた新米コーチは、もういない。「息抜きですか? もうちょっと寝たいとは思いますけど、それ以外は……。自分の好きなことをやってるのに、息抜きをする必要があるのかなって思うんです」。サラリと笑う39歳は、かつて自身が感銘を受けた名将と同じく“毎日バスケのことを考えている人”になっていた。

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