バレー

連載:監督として生きる

学生にまかせてインカレ準V 福山平成大バレー・松井弘志監督(上)

前列右から3人目が松井監督、その右が迫田前主将、さらに右が桑野コーチ(写真は福山平成大学男子バレーボール部提供)

広島県は世界一の名セッター猫田勝敏(元全日本、故人)の出身地で、「バレーボールのメッカ」と呼ばれてきました。強豪チームの指導者にはいまも、広島県出身者が数多くいます。カープがセ・リーグ3連覇を果たして広島に野球熱が沸き上がる中、昨年末の男子バレーボールのインカレで、同県東部にある福山平成大が初の準優勝に輝きました。連載「監督として生きる」の第6弾は、2000年から同大学を指導する松井弘志監督(44)です。2回でお届けします。

練習中や試合中は物静か

松井監督は走り幅跳びの名選手だったマイク・パウエル(アメリカ)に似ていると言われたことがきっかけで、東海大に進んで以降は先輩たちから「パウ」と呼ばれてきた。お酒が好きで、指導者仲間との席でも明るく社交的だが、一転して練習中や試合中は物静かだ。

インカレ準優勝の立役者で前主将の迫田郭志(FC東京)は、こう振り返る。「バレーに関して基本的にあまり指導はなくて、無口。必要なときに声はかけてくれるけど、4年間お世話になったいまでも、分からない部分は多いです」。限られたメンバーでの食事の席では話をすることもあったが、試合後や練習後にあれこれ言われた記憶はないという。

バレー自体の指導は学生コーチが担当している。迫田の同級生で、この春から同大学の大学院に進学した桑野淳一郎を筆頭に、4年生たちと相談してメニューを組み立て、監督の承認を得た上で、日々の練習を進めてきた。試合中の戦術・戦略面における細かい指示も、原則的には彼らを通して選手へ伝えられる。昨年末のインカレでも、東京学芸大や日体大といった関東の強豪と激闘を繰り広げて勝ったあと、迫田が監督から言われたのは「明日に備えろ」くらいだった。

「僕の役割は(学生のために)環境をつくること。僕の考えを学生コーチがかみくだいて伝えてます。それぞれ違うことを言っても選手が混乱するので、技術的な指導はコーチに任せてます」と松井監督。かつては自身が学生に答えを与えていたというが、あるきっかけを経てそのスタイルは変化し、いまに至る。

高1でプレーイングマネージャーに

松井監督は地元福山市に生まれ、小学2年生でバレーを始めると、強豪の駅家中へ進んだ。やがて一通りのプレーはできるようになった。しかし身長が170cm台半ばと伸びず(現在は178cm)、自営業を営む家の長男ということで、漠然と「いずれは親のあとを継ごうかな」と将来像を描いていた。

そんな彼の進路を変えたのは、広島県立神辺旭高時代の恩師である藤井修監督(故人)だった。藤井氏は松井少年に指導者としてのセンスを見出すと、両親を先に説得した上で、本人にも体育教員、指導者の道を目指すように勧めた。「藤井先生は『お前の伸びしろはもう限界じゃないか。ただプレーは上手だから、それを後輩に伝えてくれることでチームが強くなる』と。その秋ごろからプレーイングマネージャーのような形になりました」と松井監督。当時はまだ高校1年生だったが、翌年には長身の有望な後輩たちが入ってくることも背景にあったという。

体育系の教員免許が取れる条件で選んだ進学先は関東の強豪、東海大である。当時の在籍メンバーは60人前後。同級生の推薦や先輩のアドバイスなどを受け、学年が上がるに従ってサブマネージャー、そして主務を務めた。指導していた積山和明監督(現部長、広島県出身)によると「最初から将来はマネージャーに、というイメージがあった。バレーの基本も分かってたし、面倒見がよく、優しかった」。卒業後は就職の口もあったが、藤井監督が希望した通り、地元で母校を手伝う道を選んだ。

“古い指導”で手にした好結果

当時はスパルタ指導が全盛で、体罰が悪いという概念も乏しかった。神辺旭高のコーチを3年間務める中、1998年の松山インターハイではチームを全国3位に導き、古い指導法で結果を出した。その後、福山平成大からの話が舞い込んで、2000年から指導するようになった。

いまでこそ松井監督は指導を学生コーチに任せているが、監督就任当時は学生に厳しく指導をしていた

就任当初、福山平成大の練習はパス、対人レシーブのあとに乱打、最後はゲーム形式で終わり、部分練習がなかった。そこで関東の大学や神辺旭高の練習メニューを取り入れつつ、ミスした学生を厳しく指導する、というスタイルで強化を進めた。メンバーに恵まれたこともあって、01年のインカレでいきなりベスト8に入った。

それもあって勘違いをしたのか、松井監督は翌年の夏合宿で、いわゆる“行き過ぎた指導”を問われることとなった。大学には進退伺を提出したが慰留され、冷却期間を設ける意味でも、当時悩まされていた喉(のど)の病気を治療することにした。しかし手術後に待っていたのは、出血多量で生死の境をさまよう体験だった。

生きるか死ぬかの状況から、指導に復帰したのは半年後。そこから指導のスタイルは大きく舵を切ることになった。(日本バレーボール協会 豊野堯)

監督として生きる

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