破天荒な名将 東海大バスケ・陸川章HC(上)
東海大男子バスケットボール部シーガルスの陸川章ヘッドコーチ(57、HC)のもとを訪れたのは、2月22日のことだった。前日の21日、ワールドカップアジア予選を戦う男子日本代表が強豪のイランに快勝し、13年ぶりのワールドカップ出場に向けて大きく前進していた。竹内譲次、田中大貴(ともにアルバルク東京)、古川孝敏(琉球ゴールデンキングス)、ベンドラメ礼生(サンロッカーズ渋谷)という4人の教え子が最終メンバーの13人に入っていたこともあり、陸川HCも深夜の中継を最後まで見届けたのだという。
「大貴もよかったけど、譲次が素晴らしかったですね。ベテランになってもまだまだ成長してる」。当然、第一声は弾んでいた。
選手と指導者というより、父やおじさんの関係
東海大バスケ部は人材の宝庫だ。前述の4人を含め41人のOBがBリーグ1部、2部のチームに所属する。先日卒業した4年生も、3人が特別指定契約選手としてチームに帯同している。さらには、マネージャー、アナリストなどのチームスタッフ、強豪高校の指導者……。「東海大バスケ部出身」という肩書きは、日本のバスケ界においてこの上ない安定感を誇っている。
陸川HCは就任18年目。関東リーグ2部の常連だったチームを4年で1部に昇格させ、その翌年の2005年にはインカレで初優勝を達成した。昨年末のインカレで5度目の全国制覇を果たした名将は、一点の曇りもない明るさの持ち主だ。同部の関係者がよく使う「シーガルスファミリー」というくくりで言えば、学生と指導者というよりは、父親や親戚のおじさんのような関係性で、フランクに温かく学生たちに接している印象を受ける。もちろんバスケの指導も常にポジティブ。否定的な言葉や振る舞いは一切ない。
漫画のようなバスケ人生
新潟県立新井高校でバスケを始めた。新井高としては全国大会には出られなかったが、選抜チームの一員として準決勝まで進んだ国体での活躍が評価され、日本体育大学へ。そしてNKK(日本鋼管)へと、当時のエリートコースを進み、日本代表ではキャプテンを務めた。
この経歴を見るだけでも、高校でバスケを始めた男の“シンデレラストーリー”は思い描ける。しかし、子細なエピソードを聞いてみると、陸川章という男の人生は「事実は小説より奇なり」を地でいくものだった。
たとえば自身初の全国大会となった高3のときの国体。準決勝で対戦した秋田チームはウォーミングアップをせず、余裕たっぷりの表情で陸川HCたち新潟チームを見つめていた。そんな彼らの態度にカッとした陸川青年は、197cmの長身から豪快なダンクシュートをぶちかました。それは人生初のダンクだったという。
たとえばNKKでプレーしていた1994年。日本リーグ(当時)決勝の会場は、この試合で休部となる相手チームの応援であふれ、完全な「アウエー」だった。「俺たちだって必死になって戦ってここまで来たのに……」と、居ても立ってもいられなくなった陸川青年は、ウォーミングアップ中にNKKの応援席に上がり、マイクをとってこう叫んだ。
「みなさん、体育館の8割方が熊谷組の応援です。熊谷組が休部することは残念ですが、我々も頑張ります。我々にはみなさんの応援しかありません。どうか応援をお願いします!!」
ちなみにこの日、陸川青年は準決勝で負った大けがのため、医師にプレーを禁じられていた。それにも関わらず、チームメイトの士気を高めるためにウォーミングアップでダンクし、前述のマイクパフォーマンスまで。さらには、前日に監督のもとを訪れ「30秒だけでいいからコートに立たせてください」と直訴していたという。
「何をやろうとしていたかいうと、叫ぼうと思ったんです。体育館中に響くような大声で『やるぞー!!!! 』と叫んで、流れを変えようと。実際はチームメイトが頑張ってくれたので、その機会は訪れなかったんですけどね」
ほかにも、陸上の大会で裸足で走って優勝した、スポーツ用品店でレアなシューズをプレゼントされた、高校時代からのスター選手だった大学の先輩に「どこの高校出身ですか? 」と尋ねて周囲を驚愕させたなどなど、漫画のようなエピソードに事欠かない。バスケ漫画の金字塔『SLAM DUNK』はさまざまな人物がモデルに挙げられるが、私は主人公である桜木花道のモデルは陸川章なのではないかと、人知れず疑っている。