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保岡は江戸川大時代から秋田でプレーし、2021-22シーズンで6シーズン目を迎える ©B.LEAGUE

秋田・保岡龍斗「明るい家庭を築く」が夢だった少年はバスケ選手に、日本代表になった

2021.09.28

今夏、3x3(3人制バスケットボール)の日本代表として東京オリンピックに出場した保岡龍斗。5人制では秋田ノーザンハピネッツでプレーする26歳だ。高校まではほぼ無名に等しかった選手が、どのようにしてバスケに出会い、東京オリンピックを経て何を思うのか。

東京五輪を経て、3年後のメダル獲得へ意欲

結果は6位。3x3男子日本代表は、のちに優勝を果たしたラトビアに敗れて東京オリンピックを終えた。予選リーグに加え、最終戦となった決勝トーナメントでも18-21で敗れた相手が優勝。普段はBリーグでプレーする保岡にとっては、「もう少し早く3x3に没頭しておけば良かったな」という後悔の念が押し寄せた。

競技を始めてわずか3年弱で立つことができた大舞台だったが、より3x3の特性を理解して、勝つためにはどういうゲーム運びをしなきゃいけないかを、大会を通じて感じた。今一番思うことは、「やっぱりまたオリンピックの舞台でメダルをとりたい」という強い思いだ。

「オリンピックを通じて3x3を知らない方もたくさん見てくださって、SNSで『本当に感動しました』などのメッセージをいただきました。やっぱりスポーツの力は偉大だなと改めて思いましたね」

3x3を始めて3年弱でオリンピックを経験し、保岡(右)は改めてスポーツの力を感じた(撮影・細川卓)

活発かつゲーム好きだった少年時代

9月10日、越谷市立総合体育館で越谷アルファーズ主催のプレーシーズンゲームが開催された。秋田ノーザンハピネッツと宇都宮ブレックスの試合前には、3x3日本代表としてオリンピックを戦った保岡と落合知也(越谷)へのセレモニーも行われ、保岡はミニバス時代の恩師から花束を受け取った。保岡にとって中学生以来となった“地元凱旋”には、母と姉も観戦に訪れていたそうだ。

「あの体育館でプレーしたのは、中学の総体の県予選ぶりでした。自分としても、プロになってあそこでプレーするとは思っていなかったですし、改めてプロ選手として地元でプレーできてうれしかったです。機会をくださったアルファーズの方には本当に感謝しています」

埼玉県越谷市出身。小学校の1年生から2つ上の姉が所属していたチームの練習に参加していたが、それは「遊びがてら」。学年が一つ上がると、「そろそろお前もちゃんと男子チームでやったらどうだ」と当時の監督に言われ、保岡は男子のミニバスチーム「越谷フェニックス」を紹介してもらった。

「……わんぱく、ですかね(笑)」。当時はどんな少年だったかと尋ねると、保岡は一度頭を巡らせ、笑った。「外で遊ぶのが大好きでしたし、(バスケの他にも)サッカーをやったり、ドッジボールをやったり。でも、家に帰ってきたらゲームばっかりやってて、遊戯王カードとかポケモンとかやってましたね」

バスケでは当時から得点源を担う存在だった。しかし、チームは地区内で強いというレベルで、県大会では勝ち進んでも2回戦まで。まだBリーグも誕生しておらず、「プロバスケ選手になろうとは全く思っていなかったです」と保岡。中学生の時に教室で書いた将来の夢には、こう記していた。「家族を持って、明るい家庭を築く」

恩師の言葉で幅を広げた得点パターン

高校進学の際は、地元から声がかからなかった。知人のつてで日本体育大学柏高校(千葉)へと進んだが、1年生の時から主力としてプレータイムを得ると、自分たちの代では同校初となる全国出場を果たし、インターハイとウインターカップに出場。ウインターカップではインターハイと同様に2回戦敗退となったものの、保岡は初戦で23得点17リバウンド、2回戦で22得点12リバウンドをマークして全国でも爪痕を残した。

高校時代、野澤コーチに3ポイントを禁止されたことが自分のバスケを見直すきっかけになった(写真提供・秋田ノーザンハピネッツ)

高校時代、保岡には「あれがなければ今も3ポイントだけの選手になっていたかもしれない」と言えるほどの出来事がある。それは、2年生の冬の時期に野澤亨コーチから言われた「3ポイントを打つな」という一言。試合でも当時から強みとしていた長距離砲が禁止された保岡は、例えアウトサイドでノーマークになったとしても、そこからドリブルやパスを選択せざるを得なかった時期があった。

「当時はあまり理解できなかったんですけど、後で先生と話をして意図が分かりました。『攻撃のバリエーションを増やすことでお前の得点の幅が広がるから』って。あの時に1対1やジャンプショット、ポストプレーから点を取ることを教わったので、そういう意味ではすごく感謝してます」

大学3年生で個人4冠、学生代表にも選出

この冬に行った特訓によって、内外からスコアリングできるようになった保岡は、次に進んだ江戸川大学でも1年生の時から主力の座をつかんだ。しかも、入学当初からAチーム入りした経緯は、当時のチームの掟(おきて)をブチ破ってのことだった。

「江戸川大のルールとして、大学入学までに何回も練習に行かないとすぐにAチームには入れないというルールがありました。でも、当時の僕は車の免許を取りに行っててアルバイトもしてたので、練習は1回くらいしか行けてなくて……(笑)。なので最初はBチームスタートだったんですけど、入学して1週間くらいでAチームになりました」

関東2部の江戸川大においても、当時から保岡の能力は際立っていたのだろう。そして3年生でのリーグ戦では、総得点(466得点)、1試合平均得点(25.9得点)、3ポイントシュート(71本)、スティール(42本)でいずれもトップの成績を残して個人4冠を達成。チームを2位へと押し上げ、初のインカレへと導いた。

大学時代にチームの中心選手として戦えたことが、その後のキャリアにつながった ©B.LEAGUE

この時まだ3年生ということは、保岡にはあと1年、大学バスケ生活が残っている。周囲からは悲願の1部昇格を期待されて臨んだラストイヤーだったが、最後のリーグ戦は4位で終了。保岡としても個人タイトルは1つもとれず、得点ランクに至っては11位(258得点)に沈んだ。やはり、絶対的エースに対して相当マークが厳しくなったのか? いや、違う。その大きな原因は保岡自身にあったというが、本人も驚くまさかまさかの“親知らず”だった。

「リーグ戦が始まってちょっとしたら親知らずが出てきちゃったんです(笑)。それでご飯が食べられなくなってしまって、抜歯したんですけど体重が8kgぐらい落ちました。コンディションが上がらないまま試合に出ていたので得点も落ちましたし、チームにもすごい迷惑をかけてしまいましたね」

今となっては笑い話だが、「なんであのタイミングで?」と、もちろん悔いも残る。それでも、江戸川大では「本当に自由にやらせてもらった」と、4年間中心選手としてプレーさせてもらったことに感謝している。U24の日本代表にも選ばれたことでディフェンスの重要性も学び、関東1部の選手たちにも自分のオフェンス力は十分に通用した。

「もしかしたら、自分もBリーグを目指せるんじゃないか?」

そんな気持ちが芽生え始めた矢先に届いたのが、秋田ノーザンハピネッツからのオファーだった。

秋田で迎える6シーズン目「これまで以上に思いは強い」

大学3年目のシーズンが終了した2017年2月、保岡は秋田と特別指定選手契約を結んだ。練習に参加した際、当時秋田に所属していた安藤誓哉(現・島根スサノオマジック)に「めちゃくちゃプレッシャーをかけられた」ことで、プロのレベルの高さはすぐに肌で感じることができた。

「(あまりのプレッシャーに)『マジかよ!?』って思いましたけど、これが国内トップレベルだというのを痛感しました。そこから、どうせやるなら強いチームでやりたいなという気持ちが芽生えてきました」

また、保岡が「それまでは全く知らなかった」という3x3に出会ったのも、秋田に加入してからのことだ。当時のヘッドーコーチであった長谷川誠さんに「『やってみないか?』と銭湯で誘われました」と明かす。そして今は前述の通り、3年後のメダル獲得を目指して、保岡はこれまで以上に3x3と向き合おうとしている。ただ、次に控えているのは6シーズン目を迎えるBリーグであり、保岡自身もすでに開幕へ向け動き出した。

「納得がいくシーズンはこれまで一度もなかったです。今年はオリンピックに出場したことで、いい意味で注目してもらえると思うので、より大事なシーズンになると思っていますし、これまで以上にかける思いは強いです」

しかし2021-22シーズンの秋田は現時点で14人のロースターをそろえており、その内、フロントコート陣は10選手を占める。保岡によれば、前田顕蔵ヘッドコーチからはチームへ「全員使うとは限らない」とも言われているようで、日々の熾烈(しれつ)な争いはシーズン開幕後も続きそうだ。

「秋田はローテーションをして全員バスケで勝つスタイルなんですけど、すごく危機感がありますし毎日が競争です。自分の長所をアピールしつつも、チームのコンセプトをしっかり体現しなければプレータイムも減っていくと思っています」

チームカラーのピンクに対し、「着こなせるようになりたいです」と保岡 ©B.LEAGUE

元気や勇気、希望を与える存在に

コロナ禍が続く今、ファン・ブースターにとってはまだまだ会場で声が出せない日々が続きそうだ。秋田のブースターは、客席をチームカラーのピンクに染める動員力から「クレイジーピンク」とも称されている。あの熱狂の空間を、保岡も待ちわびている。制限下の今はブースターに支えられながらも、「自分たちがスポーツを通じて皆さんに元気や勇気、希望を与える存在になれたらいい」と言葉に力を込めた。

中学生の時に書いた夢も実現し、父親として守るべき家族も増えた。18年から励んでいるBリーグと3x3の両立については、今でも「めちゃくちゃ大変です。もう、めちゃくちゃ大変です……」と、無意識に繰り返してしまうほどハードだと打ち明けたが、これからも、保岡龍斗は公私ともに忙(せわ)しなく走り続ける。

「自分はそこまで背が大きい方ではないですし、足が速いわけでもなく高く飛べるわけでもないです。普通のいちアスリートというか、特別他の人より長(た)けているという部分はないと思っているので、そういった意味では、これからプロを目指している学生や子どもたちの模範になればいいかなと。戦う気持ちがあれば、スピードやジャンプ力、外国籍選手にも当たり負けしないことをこれからも証明していきたいです。僕自身としても『戦う気持ちでは誰にも負けない』、そういう選手になりたい」(文・小沼克年)