ネブラスカ大で急成長した富永啓生。次はオリンピックで飛躍を誓う(提供・ネブラスカ大)
アメリカのスーパーシューター、ステフィン・カリーになぞらえて「和製カリー」と称されるほどのシュート力を持つ富永啓生。愛知・桜丘高校卒業後はアメリカに渡り、ネブラスカ大学4年時の昨年度は、八村塁に次いで日本人2人目となるNCAA男子バスケットボールトーナメント(通称「NCAAトーナメント」)と日本人初のオールスターゲーム出場、そして3ポイントシュートコンテスト優勝を成し遂げた。今夏は、幼い頃から夢見ていたアメリカでのプロ入りと、5人制でのオリンピック出場という2大チャレンジに挑む。
NCAAトーナメントで流した涙
2024年3月22日。NCAAトーナメント1回戦でテキサスA&M大学に83-98で敗れ、富永の大学バスケは終わった。5本の3ポイントシュートを沈め21得点を挙げた富永は試合後、人目をはばかることなく涙を流した。
「僕はメンバーで一番長くこのチームでプレーしていたので、その分たくさんの思いがありました。大学生活の一番の目標としていた場所に行けたことはもちろんうれしかったですけど、そこで勝てなかった悔しさとか、もうこのチームでバスケをすることはないという寂しさとか、いろいろな思いがこみ上げてきたんだと思います」
試合後のロッカールームでは、フレッド・ホイバーグヘッドコーチ(HC)やチームメートたちから賛辞や感謝の気持ちを伝えられた。
オールスターゲームに出場し9得点
「マーチ・マッドネス(3月の狂気)」。全米からよりすぐりの68校が頂点を争うNCAAトーナメントはアメリカ屈指のスポーツイベントで、その熱狂ぶりからこのように冠される。
2年制短大のレンジャー・カレッジをへてネブラスカ大に所属した富永は、最終学年となった今年、この大会への出場権を初めて獲得した。同大としても10年ぶりの快挙だった。
飛び抜けたシュート力で日本の高校バスケ界に嵐を巻き起こした富永は、アメリカでもそのワンダーボーイっぷりをいかんなく発揮した。NCAAトーナメントやスポーツ専門チャンネルの公式SNSでは「信じられない」とか「驚きだ」といったニュアンスの言葉を添えて、そのプレーが何度も紹介された。
チームとしての戦いは3月22日に終わったものの、富永は大会の関連イベントとして行われた3ポイントコンテストとオールスターゲームに出場。3ポイントコンテストでは見事優勝を飾り、オールスターでも14分4秒のプレーで9得点を挙げた。
「まずこういったイベントに呼んでもらえるということが光栄でしたし、特にオールスターゲームではカレッジフットボールのファイナル4が開催されるスタジアムでプレーするという貴重な経験をさせてもらい、本当にうれしかったです」
チームメートの信頼獲得から始まった
レンジャー・カレッジで2年、ネブラスカ大で3年。5年におよぶアメリカ生活で富永が得たものは、語学力、技術や経験、さらにはパートナーとの出会いやネブラスカ州親善大使就任と多岐にわたる。「自分のことを知られていない状態からコーチに認めてもらうまでの過程で、一番成長できた」と富永は振り返る。
八村塁や渡邊雄太の奮闘で多少風向きは変わりつつあるが、日本人バスケットボールプレーヤーにおけるアメリカ人の評価はおしなべて高くない。突出したサイズや身体能力を備えているわけではない富永は特に、自身の実力を認めてもらうまでには時間がかかった。
富永はまず、チームメートからの信頼を獲得することを目指した。
「短大に行った時はまったく知られていない状態で、体育館に入った初日にやったピックアップゲーム(軽い紅白戦のようなもの)でも全然パスが回ってこない。本当に『お前、誰?』っていう感じでした。そこからシュートを一本一本決めることでチームメートから信頼してもらって、パスが回るようになりました」
そして、コーチにアピールしたのは、自慢のシュート力というよりバスケットボールに対する姿勢だった。富永は続ける。
「日々の練習から自分のできる100%の力を出しました。シュートを決めるであったりエナジーを出して練習するであったり、すべてのことでコーチから信頼してもらえるように頑張りました」
こうして富永は、他校のコーチがそのプレー姿に感銘を受けるほどのハードワーカーとなった。
シュート、ディフェンス、ボールハンドリングなどのスキルアップをへて、強豪カンファレンス(全米に点在する大学スポーツ連盟)を代表する選手になり、ネブラスカ州の親善大使にも任命され、全米でも知られる存在となった。しかし彼は技術はもとより、困難を自らの試行錯誤で乗り越えたという精神的な成長に、大きな手応えを得ていた。
「参加できることになれば、ワクワクしかない」
大学のすべてのシーズンを終え、ハワイで少しばかりのバカンスを楽しんだ富永は、自身の今後の人生を大きく左右する夏に向けて走り出している。幼い頃からの夢だったアメリカでのプロ入り、そして、2023年8~9月に沖縄で行われた「FIBAバスケットボールワールドカップ2023」(W杯)で出場権を勝ち取ったパリオリンピックだ。
ドラフト有望株が招待されるキャンプに富永が招待されなかったことを鑑みるに、富永は渡邊のようにドラフト外からプロ入りを目指す可能性が高い。その場合、各チームが主催するワークアウトや7月中旬から始まるサマーリーグに参加し、首脳陣から高い評価を得ることを最重要ミッションとするわけだが、この時期とオリンピックに向けた強化時期は重なる。
富永は今後、まわりの助言を受けながら非常に難しい判断を下していくことになるが、それでも「どちらも50%ずつというようなやり方はしたくない」と力を込めた。
「スケジュールを調整しながら、体のことを考えながらにはなってくるんですけど、アメリカでプロ選手にもなりたいですし、オリンピックにも出たい。やるときはどちらも100%でやりたいので、うまくやっていけたらいいなと思っています」
富永は格上の相手に対して、必要以上に恐れやおびえを持たないことを1つの指針としている。「だからといって上から行くわけではないけれど、アンダードッグ(弱者)の立場で死にものぐるいで立ち向かっていったほうが、大きな流れを作れるんじゃないかと思う」というのが理由だ。こういった彼のメンタリティは先のW杯で、過去の国際大会における数々の敗戦に傷ついたベテランたちの背中を押し、大きな力を与えた。
だから富永は、オリンピックの予選トーナメントの組み合わせを見た時も「全然やれないことはない」と思ったという。昨夏の世界大会で完敗を喫した王者ドイツ、そして開催国であり、“怪物”ビクター・ウェンバンヤマを擁するフランスと同組になったにもかかわらずだ。
「アンダードッグとして戦うことになるのは当然のこと。その中で、オリンピックに自分が参加できることになれば、自分たちが昨年見せたバスケからどれだけ成長を見せられるかが楽しみですし、ワクワクしかないですね」
富永はこともなげにそう言った。
48年ぶりの勝利へ、歴史的瞬間をつかむ
1976年のモントリオール大会以来45年ぶりの出場を果たした東京オリンピックで、日本代表は1勝もできずにコートを去った。
富永は「もし自分がオリンピックという大舞台に立つことになったら、(48年ぶりに)勝利するという歴史的な瞬間をまずつかんで、1つでも多くの勝利に貢献したい」と抱負を語り、そのためには、「まずは昨年の夏からチームとしても個人としても、数段階レベルアップすることが必要になると思う」とした。
日本代表のトム・ホーバスHCや東野智弥技術委員長は、よく「ショック・ザ・ワールド(世界を驚かせよ)」という言葉で日本代表チームのコンセプトや使命を語る。
日本のみならずアメリカをも驚愕させたスーパーシューターは、世界中が注目する舞台でどのような驚きを与えてくれるだろうか。