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約10カ月のリハビリ生活を終え、岩下はウインターカップの舞台に帰ってきた ©JBA

福岡大大濠・岩下准平、28年ぶりのウインターカップVを決めた覚悟の3Pシュート

2022.01.25

左膝(ひざ)のサポーターは福岡県予選決勝を最後にバッグの奥にしまった。もう不安はない。前十字靭帯(じんたい)断裂の大けがを乗り越え、福岡大学附属大濠高校(福岡)の眠れる獅子が高校生活最後の大舞台で目を覚ました。岩下准平(3年)。全国制覇は決して1人の力で成し遂げられることではないが、福岡大大濠に28年ぶりのウインターカップ優勝をもたらした大立者は彼だと思う。

圧巻の活躍でこの冬の主役に

昨年12月の第74回全国高校選手権大会(SoftBank ウインターカップ2021)で特に会場を唸(うな)らせたプレーは、多少の距離があっても躊躇(ちゅうちょ)なく射抜いた3ポイントシュートだった。

攻撃型ポイントガードとしてチームを牽引(けんいん)した岩下は、初戦から果敢にリングへ突進してタフショットをねじ込んだかと思えば、2回戦からは本人も得意と話すピック&ロールからの3ポイントにも当たりがきた。なかでも圧巻だったのは仙台大学附属明成高校(宮城)との準決勝。岩下はこの試合で9本の3ポイントを沈め、1人で38得点をマーク。前半に背負った16点ビハインドをひっくり返し、逆転勝利で前年度王者をねじ伏せてみせた。

「大会を通して調子は良かったですけど、あんなにスリーが入るとは思ってなかったです。でも『自信を持って外から狙っていけ』と(片峯聡太)先生にも言われていたので、自分のタイミングが合えば全部打とうと思っていましたし、その強気が9本という結果につながったのかなと思っています」

岩下(13番)は迷うことなく3ポイントシュートを打ち、気持ちがいいほどに決まった ©JBA

今大会での自身のベストプレーをたずねると、岩下は決勝戦の残り1分27秒に「気持ちで打った」という逆転の3ポイントを挙げた。優勝までの6試合で記録した3ポイントは合計17本、確率も43.5%という立派な数字だ。実は、この好パフォーマンスの裏には夏に経験した悔しい思いがあったと岩下は語る。

「チームとしては一番いい試合ができたんですけど、自分が最後、3ポイントを外して負けてしまったので……」。そう振り返るのは、U19の日本代表メンバーとして挑んだ7月のFIBA U19ワールドカップ。勝てばベスト8進出がかかったセルビア戦で、日本は86-89で敗れた。3点を追う試合終了残り3秒、トップの位置でボールを受けた岩下はやや無理な体勢から同点を狙った3点シュートを放ち、外した。W杯直後に隔離期間を経て参戦したインターハイでは調整に苦しみ、準決勝の中部大学第一高校(愛知)戦での3ポイント確率は8分の0。チームも敗れ、最終的に中部大第一に夏の日本一を奪われた。

この経験以降、「本当に悔しい思いをしたので、それからの練習は『全部決める』という気持ちで取り組みました」と岩下。その強い意識と反復練習が実を結び、最高の形でウインターカップを終えることができたのだ。

福岡大大濠に憧れ、より高いレベルを求めた

福岡県出身の岩下がバスケを始めたのは小学校3年の時。「友だちに誘われたから」というのが大きな理由のようだが、両親はともにバスケ経験者であり、当時からテレビ越しにNBAを見ていた少年だった。

この頃、マイケル・ジョーダンを始めとする超一流選手の他に「カッコいい」と感じていたのは、福岡大大濠のエースガードを務めていた津山尚大(現・三遠ネオフェニックス)だ。NBA同様、画面越しに津山のプレーを目の当たりにした時から、岩下は福大大濠に憧れを抱いていた。

「克樹さんは小学校の頃からずば抜けていて、1人で5人を突破するような選手でした」

学年が上がるにつれ、県内に平松克樹(現・明治大1年)というすごいガードがいることも知った。平松とは中学から5年間チームメートとして苦楽をともにしたのだが、岩下が西福岡中学校へ進学する際は両親を説得するという一件があったようだ。

「小6の時に県で2位になりましたけど、もっとうまくなりたいという思いがあったので地元の中学に進むのではなく、鶴我(隆博)先生とうまい選手がたくさんいる中でバスケットがしたかったんです。『西福岡で3年間バスケットをやりたい』と親に伝えたら、『じゃあ、諦めずにしっかり頑張りなさい』って後押ししてもらいました」

これを機に、岩下家は2個下の弟を含めた家族4人で西福岡中の近くへ引っ越した。西福岡中ではスタメンを勝ち取った2年生の時に全国優勝を成し遂げ、絶対的エースとして臨んだ翌年は全国2位。実践学園中学校との決勝戦、自身は38得点をたたき出したものの、惜しくも1点差で敗れた。

福岡大大濠に進む。岩下のその決意は固かった ©JBA

次は高校へとステージを移す。この時、岩下に迷いはなかった。当時の恩師である鶴我コーチには「大濠に行きたいです」とだけ伝え、小学校から憧れていた場所へ進んだ。鶴我コーチが気を使ってくれたのか、岩下は福岡大大濠の最大のライバルである福岡第一も含め、一体どこの強豪校から、どのくらいのスカウトが届いていたのか今でも分からないという。

エースガードが歩んだ紆余曲折の3年間

「大濠の13番がエースガードということは知っていましたし、津山さんも付けていた番号なので、もらった時は『自分も大濠の13番を付けられるのかあ』という気持ちで本当に嬉(うれ)しかったです」

岩下は入学してすぐに片峯コーチからこの番号を託された。13番は中学時代から愛着があり好きな番号でもあったが、これまでとはまるで重みが違う。それでも岩下は1年生からシックスマンとして出場機会を獲得し、1年目のウインターカップでは準優勝を経験。「確かに重みはありましたけど、1年生の頃からしっかり責任を持ってプレーしていました」と、はっきりコメントする。

岩下は片峯コーチからエースガードの13番を託され、喜びとともに重みを感じてきた ©JBA

2年目は冒頭に記したように、7月に左膝の前十字時靱帯断裂の大けがを負い、約10カ月のリハビリ生活を強いられた。「早くバスケをやりたい気持ちがありましたけど、思いすぎても仕方がないので本を読んでみたりウェートトレーニングを頑張ったりしました」と岩下は前を向いたが、この年のチームはウインターカップ3回戦で敗退。今回成し遂げた福岡大大濠での日本一は、紆余曲折(うよきょくせつ)の末にようやくつかんだものだった。

ウインターカップ優勝後の記者会見、岩下のコメントは感謝の言葉で溢(あふ)れた。

「去年はベスト16という結果で、自分はけがで応援席から見守っていて、本当に苦しくて、悔しくて、申し訳なさもたくさんありました。その中で2年ぶりにウインターカップのコートでプレーすることができて、たくさんの方々に感謝しかないです。こうやって帰って来られて、優勝という本当に夢のような結果で終われて、最高の2021年を締めくくることができたと思います。チームメート、片峯先生、保護者、両親、様々な方に感謝していますし、優勝という結果で恩返しできたことを本当に嬉しく思います」

日本一への挑戦は大学でも

「バスケットになったら熱く、強くなりますね」と自覚するように、コート上の岩下は熱を帯びる試合になればなるほど、いい意味で“怖い選手”へと変貌(へんぼう)を遂げる。それはこの3年間で片峯コーチから教わった「常に日本一になるという貪欲(どんよく)な気持ち、何に対しても絶対に勝つという熱い気持ちを持つ」ことを体現しているからとも言える。けれど、コートを離れればその表情は和らぎ、周りからは「いつも顔がニヤニヤしている」と言われるらしい。

高校バスケ界の頂点に立った途端、岩下のスマートフォンが暴れだした。祝福メッセージが殺到したようで、「本当にメチャクチャきましたね! LINE100件、インスタのDM、リクエスト100件とか。アイコンが『99+』になりました(笑)。本当にたくさんの方々からお祝いのメッセージだったり、学校でも会う人会う人に『おめでとう』という言葉をもらったり、優勝と準優勝では全然違うなって改めて実感しました」と教えてくれた。試合中には見たことがない、いたいけな笑顔だった。

日本一の喜びを、また次のステージでも ©JBA

岩下は現在、優勝の余韻に浸ることなく大学進学へ向けた準備を着々と進めている。「日本一になるという目標は変わりませんけど、大学やプロになるにつれてタイムシェアが多くなってくるので、その中でベストパフォーマンスができないと使ってもらえないと思っています。短時間でもやるべきことをしっかりやって、その中で調子を上げていくという部分は今までと違うので、そういうところをもっとレベルアップしたいです」と、すでに新たな課題も明確だ。

光と影を行き来したからこそ分かったこと、辿(たど)り着いた場所がある。岩下准平に怖いものなど、もうない。(文・小沼克年)