アメフト

特集:駆け抜けた4years. 2020

関学DB畑中皓貴 周りから気づかされ、やっと本気になれたラストイヤー

ライスボウルに負けたあと、DBの仲間たちに語りかけた(撮影・北川直樹)

昨年12月の甲子園ボウルで、関西学院大アメフト部ファイターズは2年連続30度目の学生日本一に輝いた。副将でDB(ディフェンスバック)の畑中皓貴(こうき、4年、滝川)は、2回生のころから関学ディフェンスの最後の砦(とりで)として体を張ってきたが、最後の甲子園ボウルのフィールドには立てなかった。 

2回生から活躍、ラストシーズンで初の長期離脱

畑中はビッグゲームに強く、勝負どころでインターセプトを重ねてきた。ラストシーズンも最後尾からすばらしい上がりを見せて、ハードタックルを繰り返していた。しかし、これまで長期離脱のなかった畑中が、最後のリーグ戦終盤になって左足首を痛めた。全治1カ月半と診断され、リーグ最終の立命館大戦から戦列を離れた。そしてチームは立命に負けた。 

甲子園ボウルの西日本代表決定戦で、ディフェンスの仲間に声をかける(撮影・松尾誠悟)

「1カ月以上のけがは初めてで、(甲子園ボウルの)西日本代表決定戦で復帰できるかどうかも怪しい状況でした。宮城をスターターとして出場させるレベルに引き上げないといけなくて、ずっと教えてきてました」と畑中。こういうこともある、と春から下級生の底上げにあたっていた。リベンジをかけた立命との再戦は、高校までラグビーに打ち込んでいた宮城日向(2年、洛北)に託す覚悟を決めつつあった。 

代わりに出た2回生が躍動

けがの状態についてはDBのメンバーや4回生にも、はっきりとは伝えていなかった。ただ、宮城には「俺の代わりに出ることになると思う」と明かしていた。負ければ引退となる西日本代表決定戦の前夜。4回生と鳥内秀晃監督(当時)が前泊したホテルでのミーティングで、4回生にも打ち明けた。「俺の体は正直、持つか分からん。1クオーターも持たんかもしれん。でも、出たら刺し違える覚悟で戦う」。畑中は涙目で仲間に誓った。そして、「俺がアカンようになったら、宮城を助けたってくれ」とお願いした。 

決戦の日、スターター表には畑中の名前があったが、復帰はかなわず。畑中はサイドラインから大声でディフェンスのメンバーに指示を送り、励ました。代わりに出た宮城は14-0とリードして迎えた第2クオーター、立命が反撃を狙ったロングパスに食らいついてインターセプト。畑中の代役をしっかり果たし、21-10で勝って甲子園ボウル出場を決めた。 

甲子園ボウルの試合中、DBの選手たちに声をかける(中央のこちら向きが畑中、撮影・北川直樹)

ライスボウルはスターターで出場

畑中は甲子園ボウルもサイドラインから見つめた。早稲田大との戦いではDB陣が次々と負傷退場。控えの選手が次々に投入されるのを見て、畑中は自分の足がどうなってもいいから試合に出してくださいとコーチにアピールした。しかし、守備コーディネーターの香山裕俊コーチは「まだアカン」と出場を認めなかった。熱くなっていた畑中が香山コーチに食ってかかるようなシーンもあった。この日は三村快(2年、関西学院)がナイスタックルを連発。宮城に続き、2回生のDBが躍動してくれた。何とか苦境を乗りきり、30度目の大学日本一を手にした。

ライスボウルの入場直前(最前列の右端が主務の橋本、その奥が畑中、撮影・安本夏望)

「僕がけがをしたことで、宮城や竹原(虎ノ助、2年、追手門学院)、三村といった2回生が成長してくれたのはよかったと思ってます。勝って(学生)日本一になったからこそ言えることですけど……。来年以降の財産になったという意味では、役割を果たせたと思います」。富士通とのライスボウルではスターターで出場。背番号45は相手のアメリカ人RBをタックルするべく駆け回ったが、14-38の完敗だった。 

ライスボウルで富士通のアメリカ人RBにタックル(45番が畑中、撮影・北川直樹)

自分を変えてくれたマネージャーと二人のコーチ

畑中には元来、気分屋のところがある。苦しいときにひたむきになれず、ファイターズでの4年間で腐りかけていた時期もあった。2回生の甲子園ボウルの試合中に脳振盪(のうしんとう)になった。筋力トレーニングも練習にも参加できず、軽い気持ちでチームから離れた。ダラダラと過ごす毎日。「このまま、やめるんかなぁ〜」とも思ったという。3回生の春にはチームに戻り、練習にも入ったが、パート内で一番うまい自信があり、向上心もなく、ただ時間だけが過ぎていった。 

その畑中の心に火をつけたのが、同期のマネージャーの橋本典子(豊中)だった。3回生の夏合宿で声をかけられた。「そんな感じでやってて、4回生になって、ついてきてくれるヤツおると思うか?」。厳しい言葉が胸に突き刺さり、目の覚めるような感覚があった。ふと周りを見渡してみた。目に留まったのは、一人の4回生の姿だった。DBのパートリーダーだった荒川陸(三田松聖)だ。アメフト未経験で関学に入ってきて、地道に練習を重ねてDBのパートリーダーになっていた。「それまで見えてなかった4回生の頑張る姿が見えるようになりました。陸さんを勝たせてあげたい。へたくそやのに、必死で『勝ちたい』って言ってる。この人を助けてあげられるのは俺だけや」。畑中がやっと本気になった。 

3回生のころの畑中は「自分が一番うまい」と、向上心もなかった(撮影・松尾誠悟)

4回生になった畑中は荒川の思いを受け継ぎ、パートリーダーになろうとしていた。そんなとき、香山コーチから食事に誘われた。池田雄紀アシスタントコーチも同席した。「なんでバイス(副将)せえへんの?」「DBを引っ張るってことは、チーム全体を引っ張ることと同じちゃうか?」「お前、責任から逃げてるだけちゃうか?」。現役時代、DBとして活躍した二人の先輩の言葉は重かった。「しんどい、って逃げてた自分がいた。核心を突かれましたね」。畑中は自分の中にある弱さと向き合い、副将になることを決めた。 

率先してやらんと、人はついてこない

「いままでやったら自分が活躍したらいいと思って、無茶苦茶なこともしてたし、責任を負うこともなかった。副キャプテンという役割に成長させてもらったし、考えることも多かったです」と振り返る。逃げなかったからこそ、学べた。「上に立つ人間は(それだけで)偉いわけじゃない。ほんとは上に立つ人間は弱い。率先してやらんと、人はついてこない。身をもって実感することができました」と力強く語る。

「本気でやってきたからこその仲間ができたし、今後も一生続く仲間です」
監督、コーチ、先輩、同期、後輩と本気で向き合えた経験は財産だ。 

甲子園ボウルの表彰式で、苦労をともにしてきた幹部の仲間と(撮影・安本夏望)
最後の最後、ライスボウルでは東京ドームのフィールドに立てた(撮影・北川直樹)