NFL選手の夢を追った法政LB小澤優太、病気に見舞われて手にした新たな夢
アメリカンフットボールの東西大学対抗戦「東京ボウル」が12月8日、富士通スタジアム川崎であり、法政大(関東1部TOP8・2位)が神戸大(関西1部3位)を33-20で下した。法政のLB(ラインバッカー)小澤優太(駒場学園)にとって激動の4年間が終わった。
川崎球場の近くで育った野球少年
小澤は早くから法政ディフェンスでLBの主力として活躍した。U-19の日本代表でも活躍し、将来を期待された。しかし、1年生の終わりごろから体の変調に悩まされ続け、思うようなプレーができなくなって、3年生の秋には1度チームを去った。それでも、いろんな人たちに支えられ、小澤はフィールドへ戻ってきた。
もともとは野球少年だったが、自宅が関東地区のアメフトの主会場である川崎球場(現・富士通スタジアム川崎)の近くだった。小学生のころに社会人Xリーグのオービックの試合を観戦に行ったのを覚えている。川崎球場の至近にある川崎市立富士見中学校に通った。体育の授業でフラッグフットボールがあり、アメフトの楽しさを知った。学校では野球部に入っていたが、日曜日は世田谷ブルーサンダースでタッチフットを楽しんだ。野球との両立がむずかしくなったため、中学のうちは野球に専念しようと思い、タッチフットは途中でやめた。高校ではアメフトをすると決めていた。
TEはやりたくなくて、LBを希望した
東京のアメフトの強豪である駒場学園高校に進んだ。タッチフットでWRだったため、駒場学園でもWRを希望した。当時は身長176cm、体重72kg。コーチからは「お前のサイズならTEだ」と言われた。「タイトエンドはパスキャッチよりもブロックのイメージが強かったので、やりたくありませんでした」と小澤。守備の花形であるLBを希望した。ガッチリした体とスピードを買われて、1年生から試合に出た。小澤は当時を「何もわからず、ただ突っ込んでただけでした」と、笑いながら振り返る。
LBが楽しくなったのは、高2の夏合宿だった。清水国際高(静岡)との試合形式の合同練習で、相手OLのブロックをぶち破ってRBにタックルを決めた。LBとして自信がついた。大学でも競技を続けることにした小澤は、コーチの「法政はLBを育てるのがうまい」というアドバイスを聞き、法政大への進学を決めた。
小澤は高校時代、自分をブロックにきたOLに当たり、手でコントロールしてボールキャリアーへタックルに向かうスタイルを得意としていた。だが、大学のOLは大きくて重い。そこで、OLに当たらずにかわすようにすると、いいプレーができるようになった。入学直後の春から出場機会を得た小澤は、夏のU-19国際大会の日本代表に選ばれた。
高校時代から意識していた関学のLBと親友に
U-19の代表チームで親友ができた。関西学院大のLB大竹泰生(たいせい、4年、関西学院)だ。高校時代から、専門誌が選出する高校生のトッププレーヤーに、そろって選ばれていた。お互いに自分とは違うタイプのLBとして意識し合ってきた。日本代表のチームメートとなった二人はすぐに意気投合し、ともに戦った。そこから連絡を取り合うようになった。
U-19日本代表で、もう一つ大きな出会いがあった。LBコーチとして参加していた有澤玄さん(当時・鹿島ディアーズ、現・法政大監督)だ。高校、大学と自分で工夫してプレースタイルをつくってきた小澤は、自分なりのやり方を褒められたことがほとんどなかった。有澤さんは違った。「いまのいいね! 俺もやってた」と、些細な工夫を褒めてくれたという。指導を受けて実践していくうち、LBとしての視野やプレーの幅が格段に広くなり、楽しくなった。「人生で一番楽しかった」というアメリカとの試合でも、トップ選手と十分に戦えるという手応えをつかんだ。小澤には、NFLを目指すという夢が芽生えた。
すぐにでもアメリカに行きたかったが、有澤さんが法政のコーチに就任することになったこともあり、もう1年大学に残って、2年生のシーズンが終わったらアメリカの大学に編入する方向で考えていた。しかし、1年生のシーズンが終わるころ、体が思うように動かないと感じることが増えた。始めは人よりも疲れが出やすい程度と気にしていなかったが、トレーナーに「絶対におかしいから病院へ行け」と言われた。いくつか病院を回っても原因は分からず、精神安定剤を処方されたり、脳の機能疾患と診断されて脳のトレーニングをしたり。
思うように体が動かなくなり、NFLをあきらめた
疲れがたまると症状が出てしまうため、大学2年生の1年間は練習量を減らした。ほぼ試合だけに出ている状態だった。チームの仲間たちと同じ練習ができず、心苦しかった。日常生活では、あわてて電車から降りようとすると足がもつれてつまずいたこともあった。そのうち毎日のように練習で症状が出るようになり「NFLはもう無理だろうな」と、大学3年生からの渡米はあきらめた。「お前がうまくなれば、大学編入じゃなくてもNFLへのチャレンジの道は開ける」と言ってくれたコーチもいたが、もう自分の中では答えが出ていた。
現実と理想のギャップに苦しめられた。3年生になると、さらに練習が満足にできなくなった。リハビリの効果も実感できず、部をやめるという気持ちが生まれた。10月中旬、リーグ戦の慶應義塾大戦で自分のなかに限界がきた。試合後すぐに部をやめた。「地獄のどん底状態だったので、これでやっと楽になれるという気持ちが強かったです」。関学の大竹にも、何も言っていなかった。噂をききつけた大竹はすぐに連絡してきた。「寂しいわ」と。
最後にする、と決めた病院で母は泣いた
小澤はもう、病院には行きたくなかった。いくつもの病院に通っても、何も改善しなかったからだ。しかし母に説得され、最後と決めて母と一緒に行った病院で、中枢神経系の疾患との診断を受けた。手術すれば完治するが、もうフットボールはできない。そう告げられるやいなや、母は泣いた。小澤は初めて強烈に、母の思いに触れた。
のちに、手術せずに同じ病気を克服できることを知った。「何とかしてまたアメフトをして、親に恩返しがしたいと思いました」。小澤は当時の気持ちを振り返る。
「俺もアメフトやりたい」と言い出した弟
ちょうどそのころ、小澤の4歳下の弟が「俺もアメフトがしたい」と言い出した。当時、花咲徳栄高校(埼玉県)の2年生。強豪の野球部をやめ、兄を追うためにアメフト部に入った。兄は法政のアメフト部を辞めたばかりのころ、弟の高校に出向いてコーチもした。
弟がアメフトに取り組む姿を見ていると、チームに戻りたい気持ちが大きくなった。急激な動きを伴うディフェンスのポジションが難しいなら、比較的緩やかに動き出せるQBはどうだろう?
復帰に向けて、本気でQBの練習を積んだ
もちろん、QBの経験など一切ない。それでも小澤は必死だった。「チームに戻るために、めちゃくちゃ練習しました」。弟の練習がない日に相手をしてもらい、雨の日も休まず、毎日3時間以上公園でボールを投げ込んだ。「モノにならなければチームには戻らない」と決めていたから、このことは、チームで一番仲がいい主将の岩田和樹(4年、法政二)にしか言わなかった。「戻ってきてくれるなら、どんな形でもいい」。岩田はそう言ってくれたという。そうするうち、いまの病院の先生に出会い、リハビリの成果でLBとして戻れる道筋が見えた。小澤はLBとしてアメフトに再挑戦すると決めた。
チームに戻って、大竹とも再会
スパッとやめたから、チームには事情を知らない仲間もたくさんいた。戻るとき「何も言ってくれなかったよね」と、チクリと言われた。しかし、小澤のまっすぐな取り組みを目にするうち、再びチームの一員として受け入れてくれた。
今年の4月、神戸市内で関学との交流戦があった。小澤はまだ試合には出られなかったが、チームには帯同していた。部に戻ったことは、関学の大竹には伝えていなかった。試合後にフィールド上で会い、小澤が「サプライズにしようと思ってた」と言うと、大竹は「そんなん知ってたわ!」と返した。ふたりは「甲子園ボウルで再会しよう」と約束した。小澤はLBのスターターとして、再び法政ディフェンスを引っ張ったが、甲子園には届かなかった。大竹は「アイツの分までやる」と、持ち前の賢く献身的なプレーで早稲田オフェンスに立ち向かい、ライスボウルに駒を進めた。1月3日の東京ドームが、親友の再会の場所になる。
怒濤(どとう)の4years.を終えて、小澤は言う。
「前は自分が活躍することしか考えてなかった。でも病気をきっかけに、親やコーチ、仲間への感謝をちゃんと感じられるようになりました。そして、頼ること、愛されることの大切さを知りました。両方の体験ができた自分は幸せだなと思います」
いつか弟と試合を
夢がある。「自分の姿を見て、弟がアメフトを始めてくれた。だからいまは、いつか弟と試合がしたいという気持ちが強いです。その思いだけで、自分もまだプレーヤーを続けたいなあ、と思ってます」
かつて抱いたNFL選手になるという夢にも負けない、かっこいい夢だと思う。