陸上・駅伝

特集:第98回箱根駅伝

東洋大・宮下隼人主将、最後の箱根路に思いのこもった一礼で伝えた感謝

最後の箱根路に笑顔で走り出す宮下(撮影・北川直樹)

第98回箱根駅伝。東洋大学は往路9位に沈んだものの、復路では怒涛の追い上げを見せ、3位駒大まであと2秒差と詰め寄る鉄紺の強さを証明した。そんなチームを牽引してきたのが主将・宮下隼人(4年、富士河口湖 )。今季はけがに苦しむなど、逆境と戦い続けた。

ラスト箱根路、感謝の気持ち忘れず

1月2日、今年も小田原中継所には東洋大学のタスキを待つ宮下の姿があった。主将として迎えた今回は実に3度目となる山登り。自身が2年時に出した1時間10分25秒の5区区間記録更新を目標に、仲間の待つ芦ノ湖を目指した。

しかし箱根の山はラストイヤーとなる宮下に容赦しなかった。「上りに入った時に思うように体が動かせない感覚があって」「後半もしかしたら何かあるかもしれないという思いでひたすら我慢していた」と振り返る。

中盤からは徐々に体が動いてきた。酒井俊幸監督の声かけもあり「ここで諦めることはできない」と必死に前を追った。しかし終わってみれば1時間12分22秒で区間8位。2年前の自分を越えることは叶わず、チームも往路9位に沈んだ。「個人としても力が振るわなかった。後輩たちに申し訳ない」

自らの区間記録を越えたいと思うも、悔しい結果に終わってしまった(撮影・佐伯航平)

それでも最後まで主将らしい姿を貫いた。宮下はフィニッシュ後すぐに、コースに対して深々とお辞儀。「監督に対しての感謝、5区というコースに対しての感謝、コロナ禍の大変な中ご尽力いただいた方々への感謝、また往路のゴールということもあるので、チームを代表してしっかりと感謝を伝えようという意味で礼をしました」。思いの詰まった一礼でラスト山登りを締めくくった。

父、そして柏原に憧れて

宮下の“礼”は今回に始まったことではない。社会人として陸上に親しんでいた父から「必ず走り終わった後に礼をするんだぞ」と指導され、以降レース後のお辞儀が習慣化していったという。陸上を始めたのもそんな父の影響から。中学まで野球少年だった宮下は、「お父さんがタスキをかけて駅伝を走ることにとても興味を持った」と父の姿に感化されるように陸上の道へ。富士河口湖高校で走力を磨いた。

これまでの、あらゆる感謝を込めて。宮下はコースに一礼した(撮影・佐伯航平)

東洋大学を選んだのはある特別な思いからだった。小学6年生の頃に見た“山の神”柏原竜二氏の走りに衝撃を受けた。「野球をやっていた僕でさえもすごく印象に残っていて、闘争心ある走りというものに憧れやかっこよさを感じた」。「箱根を目指すなら東洋大学で走りたいなと思うきっかけをそこで与えてもらった」と話す。

“闘将”目指すも「走れない主将となってしまった」

東洋大学へ進学すると、2年時で出場した初の箱根路で5区の区間新記録を樹立。3年時も前年度の記録には届かなかったものの同じく5区を託され、憧れの柏原氏に近づいた。しかし走行中に足に痛みが出るアクシデントが発生。このけがを皮切りに今シーズンは故障に悩まされた。「柏原さんがキャプテンをやられていた時は、自らが走りでチームを引っ張って、当時“闘将”と呼ばれていた。僕自身も今年1年はそれを目指していたが、まったくそれとは反対、むしろ逆で、走れない主将となってしまいました」

思うようにいかない中で迎えた全日本大学駅伝ではアンカーを務めた宮下。出雲駅伝は出走できなかったため、借りを返すつもりで臨んだ。しかし待っていたのは14年ぶりのシード落ちの結末。フィニッシュ後は思わず泣き崩れた。

「年間通して3年生以下の後輩や、僕の同期の仲間には感謝しかない。支えてもらえて、逆に僕自身が何もできていなかった」と今季を振り返る。しかし一方ではけがで出遅れた分を取り返そうと、朝4時から誰よりも早く練習を開始していた。「やったこと自体が間違っていたかどうかはわからない」。それでも主将の直向きな姿は、チームに良い影響をもたらしたに違いない。何より今回の復路で見せた東洋大学の意地の追い上げにも、宮下の努力が大きく寄与していたのではないだろうか。

マラソンで世界を目指す

卒業後は、かつての酒井監督が在籍していたコニカミノルタに向かう。「監督の指導の基礎を築いたのがそのコニカミノルタだったのであれば、今後も同じような指導のもとでやりたい」「長い距離にチャレンジしてみたいと思っているので、マラソンに取り組みたい」と意気込みを語る。

今後は日本代表を目指して走り続ける

宮下が次に見据えているのは世界の舞台だ。昨年の東京五輪ではOB服部勇馬(28、トヨタ自動車)や相澤晃(24、旭化成)、また競歩では銀メダルを獲得した池田向希(23、旭化成)や川野将虎(23、旭化成)らが活躍した。先輩たちの活躍を見て「同じ日本代表になるのであれば、オリンピックの日本代表になりたいと強く感じた」と自身も五輪を見据える。

「日本代表となって、未来の東洋大学の学生たちに、勇気や、逆に影響を与えられるような選手になりたい」。かつて“闘将”に憧れた野球少年は、今度は自分の走りで次の世代を魅了していく。