東洋大・酒井夏海 リレーでの五輪内定、世界と互角に戦うため強くなる
「何が何でも東京五輪の代表権をつかむ」その思いで挑んだ今年の日本選手権の大舞台。個人の派遣標準記録を突破することは惜しくもできなかったが、東洋大学の酒井夏海(なつみ、2年、スウィン美園/武南)は400mリレーでの代表権を獲得した。全国屈指の強豪大学水泳部の顔ともなった酒井の水泳人生に迫る。
水泳と出会い、世界との戦いへ
酒井が水泳に出会ったのは6歳。水泳を始めたきっかけは兄の影響。練習を積み重ねるとみるみる実力をつけ、才能を開花させた。小学校6年生の時に出場したジュニアオリンピック春季大会で背泳ぎ優勝を飾り、全国区の選手になった。その後も数々の大会で輝かしい成績を残し、日本トップクラスのスイマーに。また、中学1年生の時から現在、東洋大のチームメートでもある白井璃緒(4年、宝塚東)、今井月(3年、豊川)と共に切磋琢磨し合う日々を送ってきた。
転機は15歳の時に訪れた。リオデジャネイロ五輪に日本選手団最年少で出場を果たし、世界を経験。メドレーリレーの代表選手として出場したが、予選敗退の悔しい結果に終わった。世界の壁ははるかに高かったのだ。酒井は「当時はすごく弱虫で、すぐ泣いていた」と振り返る。この悔しさを晴らすべく、死に物狂いで水泳と向き合った。
東洋大学の門を叩き、仲間と共に高みを目指す
武南高校を卒業し、酒井は東洋大学への進学を決断。「平井伯昌コーチがいる東洋大学が目標を達成するための一番の道」という気持ちがあった。中学時代から良きライバルである白井璃緒と同じ道を歩むことに決めた。「璃緒さんがいなかったらここまで頑張れていない。本当にいい存在」と言うくらい白井の影響力は大きい。
しかし、大学に入学した直後、新型コロナウイルス感染症が猛威をふるった。緊急事態宣言が発令された期間は自宅で練習やトレーニングに励んだ。コロナウイルスの影響で大会は中止、延期、無観客。しかし、酒井はこの状況を前向きに捉え、来る大会に備えた。
東洋大学水泳部として挑んだ初陣は、10月に行われた日本学生選手権。通称インカレとも呼ばれており、学校対抗で競われる。チームとしての目標は女子総合優勝。酒井は白井璃緒と今井月が達成した5冠を目標に戦いに臨んだ。2日目の4×100mフリーリレーでまず優勝。3日目には4×100mメドレーリレーでも1位となった。
最終日に100m背泳ぎに出場すると、予選では前半を好タイムで折り返す。レース終盤、ペースは衰えることなく泳ぎきり2位とタッチの差で予選を制した。決勝の舞台では、出遅れてしまったがすぐさまトップと横一線に並んだ。後半になると周囲の選手をどんどん突き放し個人種目での初優勝を果たす。レース後「200m(背泳ぎ)が悪かったがここまで立て直せて良かった」と安堵の表情を見せた。
また、4×200mの8継にもエントリーし、大会新記録で優勝。東洋大としては2年連続のリレー3冠を達成。酒井は目標には届かなかったが4冠を成し遂げ、笑顔で初めてのインカレを終えた。
地道な努力が報われ、ついに東京五輪代表の座を獲得
2020年に開催予定だった東京五輪は1年の延期に。それに伴い、五輪代表選手選考会を兼ねた日本選手権が4月に行われた。2月から「何が何でも東京五輪の代表権を獲(と)る」と酒井は何度も口にしていた。この大一番に懸ける思いが強く、リオ五輪の悔しさは五輪の舞台でしか晴らせないと考えていた。3種目にエントリーし100m背泳ぎ決勝では一時トップになったものの、後半に抜かれ惜しくも優勝を逃すことに。気持ちを切り替え、100m自由形に満を持して挑んだ。準決勝では54秒台を叩き出し、五輪代表が手に届くところにある。
臨んだ決勝のレースでは持ち前のスタミナを武器に全力で泳ぎ2位入賞。個人の派遣標準記録突破とはならなかったが、400mリレーでの代表権を掴んだ。嬉しそうに笑みを浮かべながら発した「ほっとしている」という言葉から、酒井の五輪に対する強い思いがうかがえた。しかし、そんな余韻に浸っているわけではなく「日本歴代1位の順位を出す」と2か月後に控える世界との戦いに目を向ける。
東京五輪が開催できるのか難しいところだが、水泳日本代表・酒井夏海に注目だ。身長175cmと恵まれた体格で魅せる泳力が世界を圧倒するだろう。メダルを掲げる酒井を見るのが待ち遠しい。