水泳

特集:平成に輝いた4years.

鹿屋体大・柴田亜衣 金メダルもインカレも平成最高の思い出

柴田さんは2008年に現役を引退し、現在は水泳の魅力を全国の人たちに伝えている

連載「平成に輝いた4years.」の最終回は、2004年のアテネオリンピック競泳女子800m自由形で金メダルを獲得した柴田亜衣さん(36)です。女子自由形の金メダルは日本勢で初めてという快挙を成し遂げた柴田さんは、鹿児島の鹿屋(かのや)体育大学に通う4年生でした。

「人生は水泳だけじゃないよ」

柴田さんは徳島県立穴吹高校3年のとき、鹿屋体大の教授で水泳部の監督だった田中孝夫さんと出会った。大学でも水泳を続けたいと思っていた柴田さんに、のちに恩師となる田中先生を紹介してくれたのは、高校時代のコーチ。鹿屋体育大への進学の条件は「インターハイで決勝進出」だったという。柴田さんは5位入賞で条件をクリアし、01年に希望通り鹿屋体大へ進んだ。

鹿屋体大の女子寮の受け入れ人数は少ない。1年生のときには寮で暮らしても、2年生からはほとんどの選手たちが一人暮らしを始める。柴田さんもその一人だった。

「寮はお風呂とトイレ、キッチンは共用でしたけど、各自に部屋がありましたから、寮といっても一人暮らしみたいな状態でした。なので、2年生から寮を出てもとくに生活は変わりません。朝練に行って授業を受けて、午後練習して。4年間、本当に水泳をするための生活だったな、という感じです。アルバイトは禁止でしたけど、練習がキツくて、そんな元気もなかったですね」。鹿屋時代を振り返って、笑った。

当時の鹿屋体大水泳部の特徴は、日本のトップを目指すような選手たちばかりではなかったところだという。

「当時、沖田祥章さんという日本代表選手がいて、『私も沖田さんと一緒の練習をしてれば日本代表になれるかも』と思ったのは覚えてます。でも私や沖田さんのように日本代表になるのが目標の選手ばかりではなく、インカレ出場が目標の選手もいました。推薦入学の選手も一般入学の選手もいて、みんなで一緒に、ほとんど同じ練習をしてました」

水泳部は学業との両立も参加の条件としていた。テストのときは朝練がなくなり、きちっと単位を取っていなければ合宿に参加できないこともあったという。田中先生は水泳を頑張るだけではなく、その後の人生についても考えさせる指導をしていた。

「人生は水泳だけじゃないよと、いつも田中先生はおっしゃってました。だからという訳ではありませんけど、私は大学を卒業したら会社勤めをしたいと思ってました。結果的には水泳を続けることになりましたけど、普通に就職して、普通に働くという考え方というか、社会人としてのバランス感覚を持てたのは、田中先生やチームのおかげだったと思います」

同い年の北島康介に刺激を受けた

先輩であった沖田さんのように、柴田さんは02年、大学2年生で初めて日本代表チームに入った。当時はまだ代表になったばかりだったこともあって、オリンピックはまだ夢のままだった。しかし3年生で出場した世界選手権で、夢が目標に変わる。そのきっかけは、北島康介さんの活躍だった。

「私は800m自由形で出場して、結果は予選落ち。でも同い年の北島康介さんは、100m200mの平泳ぎで世界記録を出して優勝したんです。観客席で見てた私は『彼と同じように日本代表として、世界大会でもっと結果を残したい!! 』と思ったんです」

同時に柴田さんは、同じ場所に同じ立場でいながら、いい結果を残せなかったことに情けなさと悔しさも感じていた。だからこそ「オリンピックに出たい」という夢が、「オリンピックでいい結果を残したい」という目標に変化したのだ。

いい結果を残すことを目標にして、4年生のときに出場したアテネオリンピック。800m自由形の予選を2位で突破した柴田さんは、田中先生からあの言葉をかけられる。

「いつも通り、あわてず、あせらず、あきらめず、いってきなさい」

「オリンピックだからといって特別なレースがあるわけじゃない、とも言われました。その言葉で『いつも通りでいいんだ』と思えて、すごくリラックスできました」

田中先生の言葉通り、前半はあわてず、途中でライバルに先行されていてもあせらず、そして最後まであきらめず。柴田さんは日本の女子選手で初めて、自由形の金メダリストになった。

「最初は実感がありませんでした。でも表彰式で日の丸が揚がって、君が代が流れて。そして田中先生が『おめでとう』と言ってくださったとき、一気に涙があふれました」

アテネ五輪競泳女子800m自由形で優勝し、表彰台の真ん中でメダルを掲げる柴田さん(2004年8月、撮影・中田徹)
アテネオリンピックパレードで金メダルを掲げる柴田さん(右)と田中監督(2004年8月撮影、撮影・水野義則)

一体になって戦うインカレが好きだった

柴田さんにとって鹿屋体大での4年間は、本当に楽しかったという。それはともに練習する仲間がいたから。中学、高校時代は、ほとんどの練習を一人でこなしていた。淡々とタイムを刻み、泳ぎ続ける毎日。泳ぐことが好きだったし、同じタイムを刻み続けることも大好きだったから、一人でもさほど大きな苦しみにはならなかった。

大学では一人ひとりが目指す場所こそ違っていたものの、それぞれが目標に向かって全力をつくす一体感がとても心地よかった。練習はもちろんのこと、何より楽しかったのは、夏のインカレだった。

競泳は基本的には個人競技だが、大学同士でポイントを争うインカレは違う。とくにリレー種目は個人種目の2倍の得点が入るだけあって、インカレの盛り上がりは最高潮に達する。そんな雰囲気の中でレースに臨むのが、柴田さんはとても楽しかった。

「応援するのも楽しかったです。とにかくみんなで盛り上がれるのがインカレでした。うまく言い表せないんですけど、インカレ独特の、みんなで一体になって戦うという雰囲気がすごく楽しいんです」

1年生のときに初めてリレー種目に出場した。仲間と一緒にレースを泳ぐということが、柴田さんを興奮させた。3年生のときには400m800mの自由形で初優勝を果たす。そして4年生のときにはリレーでアンカーを務め、初めて表彰台に上った。「その感動はいまでも覚えてます」と笑う。

アテネ五輪で金メダルを獲得した柴田さんを、鹿屋体育大の仲間たちが胴上げ(2004年8月、撮影・水野義則)

同じ時間をともに過ごすからこその絆

人とともに戦うこと、人と一緒に時間を過ごすこと。その“肌感覚”をこれからの選手たちにも大事にしてほしいと柴田さんは話す。

「人とどういうつながり方をするかが、大事だと思うんです。『人と会って何かをしたい』と思えるつながりは、やっぱり顔を合わせて同じ時間を過ごした仲間たちだから。もちろん、人と人が接しているから、摩擦が起きることもあります。それも一緒に過ごすからこそ起こることであって、解決だってできる。そうやってできたつながりが、私は大切だと思うんです」

いまはインターネットやSNSを通じて、いつでもどこでもつながりは持てる。それでも絆という名のつながりは、同じ時間をともに過ごすからこそできるもの。柴田さんはそれを大学で学び、日本代表で学んできた。だから、柴田さんはこの肌感覚を大切にしていってほしいと願う。それこそが、日々お互いを高め合い、いざというときには持っているもの以上の力を発揮できるような、本物のチームワークをつくりあげるのである。