筑波大・大土手嵩 仲間に支えられた駅伝主将が箱根駅伝を目指す
筑波大は今夏、本気で箱根駅伝を目指すために3年生が中心になって“改革”に取り組み、大土手嵩(おおどて・しゅう、3年、小林)が駅伝主将として新チームを支えた。しかし大土手は当時を振り返り、「走りでも引っ張れるというのが(駅伝主将の)一つの条件だと思ってたので、自分は立候補できないと思ってました」と言う。
10000mの記録会で示した主将としての存在感
10月26日に実施された箱根駅伝予選会に、大土手はメンバー入りができなかった。大土手も予選会に照準を合わせて走り込んできた一人だった。しかしチームの状況を考えると、「自分が外れることが妥当だな」と割り切り、夢につながる挑戦を仲間たちに託した。予選会にはメンバーと一緒に前泊し、当日はコーチ陣と一緒にレースを追った。そしてチームは6位となり、本戦出場権をつかんだ。「12人が全員がんばって決めてくれました。チームに箱根へ連れてきてもらった」という気持ちだった。だからこそ「本番では自分が頑張ろう」と心に決め、練習に打ち込んできた。
予選会後、筑波大は記録会への出走を11月23日に実施された10000m記録挑戦競技会に絞り、練習の一環として19人が挑んだ。冷たい雨が降る中でのレースだったが、金丸逸樹(4年、長崎県立諫早)の29分20秒57を筆頭に13人が自己ベスト。中でも大土手は29分31秒58でチーム3番目となる好記録を出し、自己記録を42秒も更新した。「冬になれば調子が上がるだろうという自信はあったので、記録自体に驚きはありませんでした。でもようやく出たという気持ちはあり、主将として存在感を示せたのかなと思ってます」。練習でも自分が引っ張れるときには積極的に前に出る。そう意識してきた大土手にとっても弾みになるレースだった。
チームを変えたい、悩みながら駅伝主将になった
大土手は陸上をしていた兄の影響で陸上を始めた。それでも陸上は高校までと思っていたため、学問的な観点から筑波大を意識していたという。しかし高2のときに初めて全国高校駅伝を走り、2区で区間4位と好走。チームは5位という結果を残した。そのとき大土手は、大学でも陸上を続けることを決意した。その中で「筑波大学箱根駅伝復活プロジェクト」に魅力を感じ、また、同じ小林高から筑波大に進んだ河野誉さんの存在も後押しとなった。そして筑波大に進んだ。
それでも大学1、2年目はけがで思うような走りができなかったこともあり、「筑波大として箱根駅伝に出られなくても、関東学生連合で出られたらいいな」と思っていた節があったという。今年6月、全日本大学駅伝の予選会に出られなかったときもあまりショックはなかった。しかし上迫彬岳(うえさこ・あきたけ、3年、鹿児島県立鶴丸)が「このままじゃだめだ」と声を上げ、気付かされた。
そこからは3年生が中心になり、箱根駅伝を本気で目指すチーム作りが始まった。箱根駅伝を走る。たった一つの目標に向けてチームの意識は固まったものの、駅伝主将に手を挙げる人はいなかった。大土手自身、チームに対する思いはあったが、競技力に負い目を感じていた。だったら自分で自分を追い込んで力をつければいい。それで結果を出せなかったとしたら、それまでの選手だったというだけだ。そう考え、駅伝主将になる決意をした。
駅伝主将だけではなく、全員がチームを支える
自分がチームを走りで引っ張れない葛藤はあった。しかしそれも含め、3年生全員が一丸となってチームを支えるというのが、新体制で変わったところだ。普段の練習は相馬崇史(佐久長聖)や猿橋拓己(桐光学園)、西研人(京都府山城)ら同期が積極的に引っ張り、大土手はとくに一人ひとりの意識改革に心を砕いた。「やれることとやれないことは明確にある。だから自分がやれることをやって、足りないことをみんなに補ってもらおうと思ってこれまでやってきました」と大土手は言う。
もともとロードに強みを感じていたこともあり、いまは主将として一人の選手として、箱根路を明確に見すえている。どの区間を走りたいかを問うと、「アップダウンに苦手意識はないんで、どの区間を任せられてもいける。どこでもいけるというのが自分の役割だと思ってます」と言いきった。チームは「シード権獲得」を目指しており、大土手は区間一桁を目標としている。
大土手は男三人きょうだいの次男で、兄は「滉(こう)」、弟は「廉(れん)」と、父・寛さんと同じく、全員13角の漢字1字で名前をつけてもらった。大土手の「嵩」は、山を登ったときに頂上から見た景色や達成感、頂上での体験が印象に残っているというところから命名されたという。いまはまだ、夢の途中。その先にはきっと、素晴らしい景色が広がっていることだろう。