陸上・駅伝

特集:第96回箱根駅伝

26年ぶりの箱根駅伝出場、痛みを伴う改革が必要だった 筑波大・弘山勉監督(上)

10月26日の箱根駅伝予選会、歓喜に沸く筑波大チームの中心に弘山監督がいた(撮影・松永早弥香)

筑波大は2011年に「箱根駅伝復活プロジェクト」をスタートさせた。15年にはOBの弘山勉さん(53)を駅伝監督に招聘(しょうへい)しました。自身も箱根駅伝に4年連続出場し、卒業後はマラソンで活躍。引退後は複数の女子選手を日本代表に育てた実績を持つ指導者です。「3年で出られると思っていた」という箱根駅伝出場への壁は厚く、今年の予選会前も通過候補には挙げられていませんでした。しかし結果は43校中6位で26年ぶりとなる本戦出場。昨年からチームはどう変わったのか、弘山監督にうかがいました。2回の連載の前編は弘山監督が口にした「痛みを伴う改革」についてです。

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「本気じゃないチームを俺が指導する必要はない」

弘山:この春、けがに対する考え方の違いが、私と学生の一部にありました。冬の寒さや春先のスピードの変化、基礎トレーニングに対応できないことなどがけがの原因でしたけど、「私の立てる練習メニューが悪い」という意見が出てきたんです。私もけがに対しては気を配ってます。ただ、練習はけがをしないためにやるのではなく、箱根駅伝に出場するためにしてるんです。そこで私が折れても箱根駅伝には出られない。けがをしないためにはどうすればいいかを考えさせようとしましたけど、その部分で学生たちの意識が当時は低かったように思います。強くなるのは練習メニューじゃなくて心。心の伴わない練習は、やるだけ無意味です。

「国立大学本気の挑戦!」がプロジェクトで掲げたテーマでした。年々レベルも上がってきてたんですけど、今年は予選会突破を狙えるシーズンなのに、本気度が足りないと感じてました。筑波大の長距離ブロックは推薦入学の選手の方が少ないのが現状です。その分、学生の競技生活への考え方もいろいろで、「箱根駅伝には出たいけど、ほかのこともしたい」という選手が一定数存在しました。学生スポーツですから、それ自体は悪いことではないんですが、結果的に箱根駅伝に向かう姿勢が甘くなってました。10000mの平均タイムで出場権が得られる全日本大学駅伝の予選会にも、出られなくなってしまいました。

6月の全日本大学駅伝予選に出られなかったことを契機に、弘山監督は改革に踏み切った。当時の駅伝主将を含む数人が、長距離ブロックからほかのブロックに移ることで、箱根駅伝を本気で目指すチーム体制ができ上がった。だがその改革は、弘山監督が強制したものではなく、学生主体で実行された。

弘山監督は学生たちが本気になることを信じてひたすら待った(撮影・寺田辰朗)

弘山:本気度がチーム内でバラバラでは、いいトレーニングはできません。春から意識改革を促しましたが、あまり響きませんでした。だから私から「このままでは箱根駅伝出場なんて到底無理だよ。本気じゃないチームを俺が指導する必要はないだろ?」という問いかけをしました。チームが変わるためのきっかけをつくろうと思ったんです。それで変われなければ、所詮(しょせん)それまで。そのまま進んでも、どうせ箱根駅伝に出ることはないわけですから。

私の態度に反応した学生たちが3年生を中心に何度も何度も話し合い、チームは答えを出しました。それはチームを二分すること。当時の駅伝主将をやめさせたのではなく、袂(たもと)を分かった側に、彼が入ったまでのことです。客観的に見れば不和、不仲があったということになるかもしれませんけど、決してそうではありません。お互いのためだし、本気になるためには必要なことだと、学生たちが自分たちの意志で決めたんです。学生たちが話し合ってる間は、信じてひたすら待つ。その間は練習も任せてたんですけど、7月上旬の順大記録会の5000mで、3人が自己ベストを出しました。自分たちでしっかり練習していたことを示してくれましたね。

学生自身が決断して実行、チームに確信が芽生えた

チームがまとまってすぐに、練習の質を上げたわけではなかった。むしろじっくりと、ゆとりをもたせて夏の練習を組んだ。新たに駅伝主将となった大土手嵩(しゅう、3年、小林)を中心に、選手間で監督の立てる練習メニューや設定タイムの意図を話し合い、確認し合った。学生だけのミーティングが多かったが、ときどき「今回だけは監督も出てください」と要請されることもあった。「監督でないとチームの方針や練習の流れを説明できませんから」というのが学生の説明だ。

弘山:私が一から十まですべて説明すると、監督が従わせる形になってしまいます。それでは学生が本気になったことにはなりませんし、練習が身になる割合も低くなる。夏の間はタイムを追わず、余裕があれば最後だけフリーにする練習を多くしました。それでも量は少なくなかったと思います。持久力に不安があったので、ベースを高めておく必要がありました。9月になってから質を上げようと。今年は予選会が例年より2週間遅い日程だったので、その計画でも間に合うと判断しました。

でも、学生たちには少し不安があったようです。9月から予選会前までの6週間のメニューを出してほしいと要望してきました。こんな練習をして、こういう体調に仕上がってくるというイメージがしたかったんでしょう。私は選手の状態の変化を見て練習を立てますので、メニューは出しても2週間分程度です。どんなに長くても1カ月分。「6週間分を出しても変わるからね」と言い添えて、6週間分のメニューを2パターンつくりました。どちらも(負荷の大きい)ポイント練習は一緒で、つなぎの練習を2パターン出して、どっちでやるか学生たちに決めさせたんです。スピードの速い方を選んできましたね。台風で変更したとき以外は、その通りの練習をやりきりました。

しかし、9月末の記録会の10000mで29分台を出せたのは、金丸逸樹(いつき、4年、長崎県立諫早)と猿橋拓己(3年、桐光学園)の2人だけだった。ほかのAグループの選手は後半で総崩れ状態。そこで自信をなくしてしまったら、1カ月後の予選会で好走などできない。

予選会で金丸(240番)は13位でチームトップ、猿橋(243番)は20位でチーム内では3位だった(撮影・小野口健太)

弘山:考えられる原因を選手たちに話しました。合宿明けで調整不足の状態で、さらに暑い中で速い展開にしてしまったことが考えられました。Bグループの1年生が30分30秒で走ったので、金丸と猿橋以外のAグループの選手たちには「2人(金丸と猿橋)と30分30秒の1年生の間では走れたんだよ」と伝えました。加えて、データを示しながら「次のポイント練習ではこのくらいで走れるから」と励ますと、その通りに練習で走ってくれました。記録会は決していい結果ではなかったんですけど、悪くはないところに収まってたんです。あとから考えれば、そこからもう少し体をつくっていれば、もっといい状態に持っていける結果でしたね。学生たちにデータを見て理解する力があったので、自信を失わなかったんです。

10月に入って状態がどんどんよくなって、Aグループで練習する選手も増え、練習の質はかなり上がっていましたが、遅れる選手は一人もいなくなりました。「この練習ができて、まさか予選会を通らないなんて思ってないよね」と、選手たちにもはっきり言いましたね。体を絞って、あとは疲労の調整です。ハーフマラソンの距離なら、トラックほどフレッシュな状態にしなくていい。そして予選会の3日前に最終刺激の練習をやったんですけど、そのときのタイムと選手たちの状態や雰囲気で「絶対に予選会を突破できる」と確信しました。

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2回連載の後編は、「箱根駅伝復活プロジェクト」の中で学生たちがどう変わり、箱根駅伝出場が決まってからチームはどう動き始めたかについてうかがいます。

【後編はこちら】「箱根駅伝復活プロジェクト」で変わったのは学生だった

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