大学野球

30年間審判を務めて見えた野球の「本質」 元法政大野球部・小山克仁

小山克仁さんは本業のかたわら、アマチュア野球の審判を30年務めた(選手写真以外すべて本人提供)

東京六大学リーグをはじめ、春・夏の甲子園、都市対抗、さらには国際大会でも審判を務めた小山克仁さん。電話取材を通して、豊富な経験を振り返ってもらうとともに、若い世代に伝えたいことを語ってもらった。

法政大で8シーズン中4度の優勝

「新型コロナウィルスの影響を受けているこの状況下だからこそ、できることはある。野球とは何か?スポーツとは何か?その本質をじっくり考えてほしいと思います」。こう話す小山にはたどり着いた答えがある。野球、スポーツの「本質」に最初に触れたのは、野球部に所属していた法政大学時代だ。

在学時、チームは強かった。8シーズン中、秋春連覇を含む4度のリーグ優勝を経験し、他の4季も2位が3回で3位が1回。江川卓(元巨人)を擁して4連覇を遂げた1970年代に続き、この80年代前半も突出していた。同期には小早川毅彦(元広島)や、現法政大助監督の銚子利夫(元大洋)らが、1学年上には西田真二(元広島)や木戸克彦(元阪神)らがいた。

小山も甲子園で連覇の実績がある(1960年夏~61年春)法政二高で1年秋からレギュラーを張った実力派。だが、在学4年間で実に17人がプロに進んだ「名門」の選手層は厚く、3年時よりチームを支える裏方に。当時の鴨田勝雄監督から指導者の道をすすめられ、学生コーチになった。

常勝軍団に求められていたのは「品性」

圧倒的な力を誇っていた時代だったが、決して勝利至上主義ではなかったという。選手に求められていたのは「品性」で、「オープン戦で相手校にヤジを飛ばした先輩がこっぴどく怒られてました」。「相手がいるから試合ができる。ならばその相手をリスペクトしなければならない」と。

「スポーツは運動プラス、ルールにのっとって楽しく自発的にする遊び。これをおろそかにすると、楽しむことができないし、何かあったら人のせいにしてしまうんです。相手がいるから自分も成長できる。それを学ぶのが学生スポーツだと、私は法政大で教えられました」

大学時代は踏めなかった神宮の舞台。審判として何度も立つことになった

また、エリート軍団ではあったが、当時から日の当たらない選手を尊重する文化が根付いていた。小山が3年春(82年)に全勝優勝を果たした時の報告会。挨拶に立った主将の木戸は、集まった大勢の学生を前にこうスピーチした。

「僕らが全勝優勝できたのはステージに上がっているメンバーだけでなく、ベンチに入っていない選手がいるからこそ。だから、授業などで彼らを見かけたら『おめでとう』の一言を言ってほしい」

いくら好素材が集まってもそれだけでは勝てないし、いいチームにはなれない。小山はそのことも法政大で学んだ。

東京六大学の審判になったのが転機に

卒業後、小山は指導者の道には進まず、市役所に勤めた。休日に神奈川県のアマチュア野球の審判をするようになったのは24歳の時。職場の先輩から「君の若さで始めれば、甲子園でジャッジをするのも夢じゃない」と誘われたのがきっかけだった。「甲子園」。地方大会で敗れた元高校球児にとって、これ以上魅力的な言葉はなかった。

野球の、スポーツの「本質」に触れる“第2幕”が始まった。

転機は審判を始めた4年後に訪れる。法政大野球部OB会から頼まれ、東京六大学野球連盟の審判員になった。これを境に小山の審判としての活動は一変する。東京六大学リーグで経験を重ねたことで、甲子園や都市対抗といった大きな舞台に派遣されるようになったのだ。

憧れの甲子園の舞台でもジャッジを務めた

「雲の上の存在だった、東京六大学の審判の先輩方から様々なアドバイスをいただけたのは大きかったですね。それと、リーグ戦の試合を通じて成長できたかと。東京六大学は常にたくさんの観客の視線にさらされながらジャッジをするので……1試合で都道府県大会での100試合に相当するくらいの審判経験ができたと思います」

強い印象が残る早稲田の和田毅と慶應の高橋由伸

夢だった甲子園の土を踏んだのは、審判になって7年後の1995年。以来、甲子園でも数多くの試合を担当してきたが、高校野球の「聖地」では、試合中に成長する選手の姿を目の当たりにしてきた。

「大観衆に見られている、という意識が持っている力を発揮させ、その成功体験が選手を大きく成長させるのだと思います」

審判として通算で約800試合に出場した東京六大学リーグでは、名選手の技術の高さを間近に見てきた。投手で特に印象に残っているのが、早稲田大学の和田毅(現ソフトバンク)だ。「和田君は球の出所が見えにくく、いきなりボールが来る感じなので、球速表示よりもかなり速く感じました。球審の私でもそうでしたから、打者はなおさらでは。江川さんが持っていた連盟の通算最多奪三振記録を更新したのもうなずけます」。

高橋由伸は審判の目から見てもずば抜けた選手だった(1997年撮影・朝日新聞社)

打者では慶應義塾大学の高橋由伸(前巨人監督)だという。高橋は通算最多記録となる23本塁打を放った。「球審をしていて、打つのか見逃すのかわからなかったのが高橋君でした。見逃すのかなと思っていた瞬間にバットが出てくる。ギリギリまでボールを見極められる力と並外れたスイングスピードが大学時代からありましたね」

審判をしていると技術面だけでなく、選手の内面も見えてくるという。

「品位のある立ち振る舞いをする選手はやはり好感が持てます。そういう選手は社会に出てから、組織のリーダーになってますね。反対に残念なのは、判定に対して『あっ』『えっ』『うっ』という否定的な言葉を吐く選手。こういう選手は、切り替えがすぐにできない傾向があります」

国際大会の「アンリトンルール」を遵守してほしい

小山は1998年のバンコクアジア大会を皮切りに、国際大会にも数多く派遣された。2000年のシドニーオリンピックでは8試合でジャッジを振るい、決勝では1塁塁審を務めた。諸外国の野球に触れ、見えてきたものがある。それは日本が改善すべき点だ。小山は「国際大会のマナーに準じてプレーしなければいけない」と指摘する。

「国際大会ではアンリトンルールがあります。野球のルールブックには記載されていない不文律です。例えば、初回から送りバントはしない。なぜなら野球は打って点を取る競技だからです。他にも大量にリードしたらけん制はしない、盗塁はしない、スクイズはしない、というのもありますし、明らかにレベルが下のチームに変化球は投げないことも暗黙の了解です。それなのに日本代表チームは勝利に固執するが余り、アンリトンルールを守っていないシーンが少なからず見受けられるのです」

国際的にレベル高い日本だからこそ、率先して国際ルールを守ってほしいと小山さんは言う

日本の男子野球は最新の(今年3月)WBSCのランキングで1位。世界の野球を引っ張っていく立場にある。技術が高い、強いだけでなく、国際大会に対応する野球を率先垂範していってほしい。現在は全日本野球協会のアマチュア野球規則委員会・副委員長の立場にある小山はそう願っている。

審判なら野球の魅力が無限大に広がる

2016年夏。小山は甲子園大会をもって、アマチュア野球の審判を引退した。54歳になっていた。「自分にしかわからないミスをするようになりましてね。体力的にも厳しくなりましたし、東京六大学野球連盟は後進も育っていた。潮時かな、と思ったのです」。審判生活は30年。人生の3分の2近くは審判をしていたことになる。審判として出場した試合は公式戦だけでも約2400。むろん審判は生業ではなく、休日や有休休暇を使ってのものだ。なぜそこまで小山を虜(とりこ)にしたのか? 審判の魅力をこう語る。

「アマチュア野球の名だたる選手たちとグラウンドレベルで緊張感を共有できることですね。その中で人として成長することができるんです。野球の魅力を知ることもできます。ボールの大きさに例えるなら、選手時代は野球の魅力が卓球のボール程度しかわかりません。監督で野球のボール程度でしょうか。これが審判になると無限大で、バスケットボールより遥かに大きくなるんです」

野球、スポーツの本質は「尊敬」、「正義」、「規律」

小山はアフリカ・タンザニアでも野球の本質に触れた。タンザニアとの縁は、慶應義塾大学の野球部出身で、NPO法人アフリカ野球友の会代表理事を務める友成晋也との出会いが作った。友成は2012年からJICA(国際協力機構)のタンザニア事務所の職員として現地で野球の普及活動をしていた。小山は友成の熱に打たれ、まだアマチュア野球の審判をしていた2014年にタンザニアへ。友成が発起人となった「第2回タンザニア甲子園」で球審を担うとともに、審判指導と野球の技術指導を行った。2014年に4校で始まった「タンザニア甲子園」は昨年の第7回大会で13校、300名が参加するまでに成長している。

HOSEIのユニフォームを着て、子どもたちと一緒にランニングをすることも

友成は現在、南スーダンで野球を教えており、小山は今も引き続きタンザニアの野球普及活動に携わっている。

初めてタンザニアに行った時、小山は衝撃を受けたという。野球をする者にとって当たり前のことが、タンザニアでは極めて特別なことだったのだ。

「野球では1番から9番まで打順に従って打ちます。4番が続けて打つことはないですし、8番が飛ばされることもありません。公平です。ですがタンザニアの人たちは日頃、公平ではない社会で暮らしてますからね。誰もが公平に打てることに喜びを見出したのです」

タンザニアは心を育てるスポーツや音楽の教育に力を入れていなかったが、友成の尽力でたくさんの子供たちが野球をするようになり、それによって社会性が育まれていった。野球で養った集中力が学業で活かされるなど、プラスアルファも多く生まれた。友成の情熱はやがてタンザニアのスポーツ担当大臣をも動かし、国としてスポーツ教育を重んじるようになった。タンザニア甲子園球場竣工引渡式の当日には、スポーツ担当大臣のみならず、マジャリワ首相が主賓として参加したという。

友成の普及活動では「規律」(discipline)を大切にしていた。時間をきちんと守る、用具を大切に扱う……日本の野球文化のいいところでもある。はじめはスポーツにおいて「規律」の概念がなかったタンザニアの子供たちも、「規律」を知ることで行動が変わっていった。

アフリカの子どもたちに野球を伝えることで、スポーツの「本質」をより考えるようになった

この「規律」に加え、小山が友成に重要だと説いたのが、尊敬(respect)と正義(justice)だった。いずれも30年間の審判生活でたどり着いたものだ。「野球の、スポーツの本質は、尊敬(respect)、正義(justice)、規律(discipline)の3つに集約されていると思います」

小山はこれからも1人の野球人として、彼がたどり着いた「本質」を伝えていくとともに、「本質」を考えるその意味を伝えていくつもりだ。