U17日本代表で主将を務めた東海大諏訪高の石口直 バスケに命をかけ、みせた成長
5人制のU16アジア選手権でベスト5に選出され、U17ワールドカップでは日本代表チームの主将をつとめ、3人制のU17アジア選手権でも日本の優勝に貢献。東海大諏訪の石口直(すぐる)は、今年度の高校界を代表する3年生の一人だ。
持ち味は鋭いドライブと正確な3ポイントシュート。どんな状況でもぶれないメンタルで、ディフェンスや状況判断でも力を振るい、5人制の日本代表では、東海大諏訪で経験していない、ポイントガードとしてのポテンシャルも発揮した。
12月末に開催されたウインターカップの前後、石口は「中学時代に無名だった選手が一躍トップ選手に」という趣旨で、多くのメディアに取り上げられた。
しかし、本稿の執筆に際し、東海大諏訪の入野貴幸監督と石口を取材して見えてきたのは、夢のようなシンデレラストーリーではなかった。
確固たる戦略と志を持って努力してきた男のサクセスストーリーであり、大切なものを教えてくれた仲間との友情物語だ。
知名度はないが、関係者なら誰もが知る好プレーヤー
話は、石口の中学時代にさかのぼる。
石口が当時プレーしていたのは「上越ジョーズ」というクラブチーム。中学校のバスケ部には所属していない。
今でこそ、中学部活動、クラブチーム、Bリーグユースがいっしょくたに戦う全国大会「ジュニアウインターカップ」が開催されているが、石口が中学生だったころは、クラブチーム単体でプレーしている選手に「全国中学校大会」や「都道府県対抗ジュニアバスケットボール大会」といった公式の全国大会の出場資格はなかった。
石口が全国大会の実績を持たない、世間的に「無名」だった最たる理由だ。
部活に所属せずクラブチーム一本でプレーするという選択をした理由について、石口はこう説明する。
「ジョーズは全国を回って、いろんなクラブチームや高校と試合をします。部活ではなかなかそういう機会はないと思うし、練習時間やコートが使える時間もあまり多くありません。僕は当時から県外の高校でバスケがしたいなと考えていたので、たくさん経験を積めて、いろんな高校にアプローチができるジョーズでプレーしようと思いました」
石口は当時から、中学卒業以降の明確なビジョンと高い志を持ってプレーしていたのだ。
志だけでなく実力も磨いた。中学2年時に出場した、クラブチームの全国規模の大会では優秀選手賞を受賞している。
入野監督は「中3の夏、うちの練習に来て3年生と1対1をやったとき、すごく鋭いドライブで抜いたのを見て『これはいける』と思いました」と言い、「ジョーズと試合をした高校の先生は、みな石口のことを知っていたと思います」と証言している。
世間での知名度はないが、関係者なら誰もが知っている好プレーヤー。そのようなポジションから、石口は高校バスケをスタートさせた。
高校入学時「目標はアンダー(世代別)の日本代表」
高校入学時に設定した目標は「アンダー(世代別)の日本代表に入る」。
これを達成するためのマイルストーンとして「日本一になる」「スタメンになる」といったいくつもの目標を設定した石口は、これらをクリアするべくがむしゃらにプレーし、早くからメンバー入りを果たした。
しかし、試合にコンスタントに出られるレベルにはなかなか至らなかった。当時の石口について、入野監督はこのように述懐する。
「真面目だし、いいものを持っているんです。ただ大きな試合になると、周りが見えなくなったり、無理に突っ込んで失敗したり、けがをしたり……。頑張ってるけれど空回りしている印象がありました」
中学時代に公式戦をあまり経験していない影響もあったのかもしれない。高い志と実力を持ちながら、それをコートでうまく表現できない日々を重ねるにつれ、石口は当初の目標を見失いつつあったという。
そんな石口を救った人物がいる。同期の屋代和希だ。「あのころは本当にあきらめそうになったんですけど、和希が『頑張るぞ』って自分を引っ張ってくれたから、今の自分がいます」と石口は振り返る。
石口は、自分の努力する姿勢にそれなりの自信を持っていた。しかし、屋代のそれは石口を上回るものだった。
「よく『寝る間も惜しんで努力する』って言いますけど、和希はまさにそういうやつ。こんなに人生をバスケに懸けられるやつがいるんだって驚きました」
気づいた「バスケに命をかける楽しさ」
屋代に触発され、石口は生活のすべてをバスケに投じてみることにした。
早朝5時過ぎから体育館に行き、朝練を行う。チーム練習後は、屋代に教わりながらスキルトレーニングに取り組む。誰よりも遅い時間に体育館を出たあとは、2人でNBAや海外バスケの映像を見て、チームや仲間たちのこと、未来のことを語り合った。
そうして過ごすうちに、石口は気づいた。
「夢中になって、命をかけるくらい全力でバスケをするって、こんなに楽しいことなんだ」
バスケにいっそうのめり込んでいく中で、チャンスが訪れた。
2年生の秋。ウインターカップのスタメンに抜擢(ばってき)された。入野監督はウインターカップで石口をスタメンにするかどうか、かなり悩んだという。「普通だったら3年生にしていたと思う」とも話す。
それでも石口を選んだのには、理由があった。
「直の、もがきながらもがきながら、空回りもしながら、それでもコツコツ努力し続ける姿を見て、彼に託そうと思いました」
ウインターカップをスタメンとしてプレーして得た経験を生かし、石口は年明けの新人戦でブレーク。U16日本代表候補のエントリーメンバーに招集され、最終メンバーとして国際試合を戦った。
入学時に目標に掲げた「日本代表」に再び目を向け、かなえる足がかりとなったのは、屋代が教えてくれた「バスケに命をかける楽しさ」だった。
ベスト8敗退にも「泣いて後悔するようなことは何もない」
昨年末のウインターカップ。「優勝」という目標を掲げた東海大諏訪は、開志国際(新潟)に57-91で敗れ、ベスト8で敗退した。
この試合、東海大諏訪は試合開始直後から大舞台に飲まれ、前半で18-44と大きく水をあけられた。「これで終わりでいいのか」という入野監督の活に触発され、後半は本来のプレーを取り戻せたが、負ったビハインドはあまりに大きかった。
石口は試合後に報道陣の取材に応じた。
「プレーヤーとしては仕事ができたと思うんですけど、キャプテンとしてチームに活を入れられなかったという点で、まだまだダメなんだなと思い知らされました」
その口調は、年長者である我々報道陣がたじろいでしまいそうになるほど、冷静で、穏やかで、淡々としていた。
「自主自立」をモットーに、選手主導でバスケに取り組むことを目指す東海大諏訪のキャプテンらしく、石口は「相手は相手、自分自分」というスタンスでチームを見守ってきた。仲間たちの取り組みに疑問を持つこともあったが、「相手には相手の人生があるから干渉すべきではない」と、口は出さなかった。
しかし、そのスタンスの限界を、大切な高校最後の試合で痛感した。
「僕個人はいくらでも努力できるんですけど、チームを努力させることができなかったし、今日は『いいときも悪いときも平常心でいられる』っていう自分の強みが悪い方向に働いて、チームの雰囲気を変えられませんでした。チームを勝たせられるリーダーじゃなかったという点で、自分の力不足を感じましたし、結局、自分はそんなにいい選手じゃないなって思いました」
20分近くの問答の最中、涙は一切なかった。その理由を石口はきっぱりと言い切った。
「本当に死ぬ気でやってきたので、泣いて後悔するようなことは何もないです」
たとえ達成できなくても、目標に向けて努力する過程は楽しい
高校最後の大会を終え、高校の自由登校期間に入った石口は、学校の寮を離れ、新潟にある実家に戻った。
今は、近隣の体育館に通い、自主トレーニングに明け暮れる日々を送っているという。
石口は春から中央大学に進学する。専任の指導者を持たず、部員一人ひとりが『チーム』という組織づくりに尽力するカルチャーに引かれて、多数のオファーの中から選び取った。
チームづくりを突き詰めて、いつかは自分のチームを持ちたい――。
いくつかあるキャリアプランの一つにそのようなビジョンを持つ石口は、大学で成し遂げてみたいことがあるという。
「僕や和希のように、バスケにすべてを懸けられるチームが作れたら、すごくうれしいです。だって、そのほうが絶対楽しいですもん」
石口は自身の歩んだ高校3年間を引き合いに出して、言葉を続けた。
「高校バスケが終わって思うのは、『目標を達成したから楽しい』じゃなくて『目標に向けて努力する過程が楽しい』ってこと。東海大諏訪に入って本気で日本一を目指して、それでも開志に負けましたけど、命をかけて努力した3年間はすごい楽しかったです。自分の決めた目標に全力で努力したら本当に楽しいんだってことを、たくさんの人に知ってもらいたいです」
高校ラストゲームで気づいたリーダーシップの課題を、石口は次の4年間でどのようにクリアし、仲間たちに「命がけの楽しさ」を伝えていくのか。その過程を引き続き追いかけられたらと思う。