僕はもうスケートだけじゃない 東洋大出身、歌手転身の板井郁也が開いた新しい扉
希望を抱き、大学に入学しても誰もが順風満帆に進むわけではない。元フィギュアスケート選手で、今年3月、東洋大学を卒業した板井郁也(ふみや、27、武蔵野大高)もその一人だ。高校生でジュニアグランプリシリーズを経験したが、大学に入ってうつ病を発症。一時競技から離れ、表舞台からひっそりと退いた。その後は音楽と出会い、いまは歌手として新しい道を歩み始めている。
金色の日本代表ジャージーが着たい
板井がスケートを始めたのは8歳の頃。アニメ「クレヨンしんちゃん」でスケートの場面を見たのがきっかけだ。家族で遊びに行った長野県・軽井沢のリンクで上手にスピンを回っている人の姿を見て、自分も滑れるようになりたいと思い立ち、東京都新宿区にあるシチズンプラザの教室に通い始めた。
10歳の頃、ひとつの夢ができた。練習するリンクに上手な女子選手がいて、日本代表だけが着られる金色が入ったジャージーで教室に通っていた。「僕も欲しい」。そのジャージーを着られる日を目指して練習に打ち込んだ。
高校1年でインターハイ3位。2年でジュニアながら全日本選手権に推薦出場した。2010年、高校2年で日本スケート連盟の強化選手に指定され、高校3年でジュニアグランプリ(GP)シリーズ2戦に派遣され、初舞台のオーストリア大会でいきなり5位に入った。
「ずっと憧れていたジャパンジャージーを来て、国を代表していると実感した。その頃から花が少しずつ咲いていくような、自分が描いたスケートができるようになってきた。もっと自分がこういう表現をしたいという意欲が出てきた」。さらに上を目指し、日中もスケートに専念するために東洋大学社会学部・イブニングコースに進学した。
夕方から授業、往復15kmの自転車通学
入学後、スケートとの両立が始まった。午前5時半ごろ起床し、母親が用意してくれた朝ごはんを食べてリンクへ向かった。練習の合間に大学の課題をこなした。足腰を鍛えるトレーニングも兼ねて往復15kmの自転車通学。夕方から授業に出席し、帰宅は深夜だった。
GPシリーズ出場という新たな目標もできた。五輪ではなくGPシリーズにこだわった。母子家庭で育ち、母親がフルタイムの仕事をして授業料やコーチ代、遠征費などを工面してくれていた。「僕は経済的に恵まれてなくて、ぎりぎりでやっていた。GPシリーズやユニバーシアードとか、海外派遣はどうしても手に入れたかった。上の世界を経験してコーチになろうというのが理想だった。そして恩返しがしたかった」
国際大会に派遣されるためには成績を残さなければならない。高校3年の全日本選手権は総合18位。フリーはテレビ中継も入る第3グループで滑ったが、独特の雰囲気に飲まれてしまい、ミスを連発した。次こそ全日本選手権の最終グループで滑ると決めていた。
体に異変、ジャンプもスピンもできない
「スケートのために、あるものすべてを捧げたい」。その強い思いが板井を追い詰めた。睡眠時間が短くなり、体の調子を崩すようになった。「今思えば、頑張れる範囲を超えてしまったのかも」と言う。
秋には練習に支障をきたすようになった。スピンをすると視界が揺れ、ジャンプを跳んでも回転数がわからず、まっすぐ歩くこともできなくなった。東京選手権に出場したものの、ジャンプもスピンもできず、フリーを棄権、全日本選手権出場の道も途絶えた。
大学には通い続けたがリンクからは遠ざかった。5、6か所都内の病院を回ったが原因はわからなかった。うつ病を発症し、入退院を繰り返した。
18歳で時間が止まっている
板井は18歳の全日本選手権の華々しさが忘れられなかった。「全日本選手権の最終グループで滑る」という淡い夢。わずかな望みをかけて約3年ぶりにリンクに戻った。なぜか感覚は戻っており、トーループとサルコーの2種類の3回転が跳べるようになった。ありったけの貯金をはたいて福岡に武者修行にもいった。半年かけて、体もケアしながら東京と福岡で練習を続けた。
もちろん現実は甘くなかった。男子は羽生結弦(ANA)を筆頭に4回転時代を迎えていた。入院中に羽生の活躍は新聞で見ていたが、周りのレベルも上がっていた。リンクを離れていた時間はあまりにも長すぎた。
「あのとき自分のスケートが続いていたら……」。そんな思いがずっと心の中にあった。「そんなにとらわれる必要はなかったのかもしれないけれど、いま思うと、僕にはそこの場所しかなかった。逃げ道がなかった」
その後は体と相談しながら試合に出続けた。全日本選手権出場は叶(かな)うことはなかったが、2017年1月、引退試合となったインカレは印象に残っている。ラストシーズンに選んだ曲は、憧れの高橋大輔が2004-05年シーズンに滑った「アランフェス協奏曲」だった。CD3枚を組み合わせて2カ月かけて編集した。
「終盤のステップでビートがのって、最後の力をふりしぼって滑っていく姿を見て、泣けてくるような哀愁があった。僕は戦えないスケーターかもしれないけど、最後こんなふうに終われたらいいなって」
大会前も体調を崩し、1週間くらい滑れていなかったが、ショートプログラムではジャンプが全て跳べた。スピンもうまくいった。「神がかり的でした。不思議なもので引退試合って奇跡が起こるんですね」。こうして板井は誇りを持って競技生活の幕を閉じた。
「扉を開けたら」で歌手デビュー
引退後、出会ったのは音楽の世界だった。
ある日、カラオケで歌っていると、「1曲をちゃんと表現したい」という衝動に駆られた。2017年10月からミュージックスクール「IM music」の藤原綾子さんのもとでボイスレッスンを開始。毎日のようにスタジオに通い、一心不乱に練習を続けた。2019年1月にスクールのオーディションで特待生に選出され、プロデビューが近づいた。
スケートもやめていなかった。教室の講師を務めたり、イベントに出演したり。自ら振り付けしたプログラムも披露していた。スケートと歌、板井にしかできない表現の世界がそこにはあった。
そして10月、「扉を開けたら」(作曲・作詞堀田陽一)で歌手デビューを果たした。曲に込めた思いは、これまでのスケート人生、そして新しいステージに向かう自分だ。
「僕は18歳から9年間、時が止まっていた。ただただ時間だけが過ぎていく感覚だった。それでも腐りかけても自分にできることを、ひとつずつやってきた。歌手という道、自分の扉を開けたらという僕だけのオリジナル楽曲。やっと、長い長いトンネルから抜け出せた」
大学生へ「昨日の自分と比べて」
今春に大学を卒業し、2曲目のリリースも決まっている。「表現に対する情熱がどんどん強くなっている。フィギュアスケートでいうと、初めてプログラムを作って初級の試合に出たところです」
過去にとらわれ苦しみながらも新しい道を見つけて前に進み始めた板井。大学生にメッセージをお願いすると、こんな答えが返ってきた。
「好きなものを見つけなさいと言うけれど、そんな簡単に見つからない。ひとつでも見つかればいいほうだと思う。自分がコンプレックスとか弱みとか思っていたものが実は強みだったということがある。他の人と比べないで、昨日の自分と比べて一歩ずつでもいいから進んでいければ、それが人生の成功なんじゃないかって思っている。人生って、どの道を選んでも正解だと思う。自分に向いていなかったらやめればいい。人生はひとつじゃないから」