フィギュアスケート

特集:駆け抜けた4years. 2020

岩手大大学院・佐藤洸彬 ”盛岡の星”がフィギュアスケートと数学で追い求めた美しさ

大学院修了とともに競技生活に別れを告げる(すべて撮影・浅野有美)

「盛岡の星」と呼ばれたスケーターがいる。岩手大学大学院総合科学研究科(修士課程)の佐藤洸彬(ひろあき、盛岡中央)は、学業とフィギュアスケートを両立し、独特の表現力が光った。数学が大好きで中学校、高校の教員免許も取得。このほど、大学院修了とともに競技生活にピリオドを打った。

小4のとき、羽生を見て向上心に火がついた

佐藤は盛岡市生まれ。5歳くらいのとき、姉の影響でスケートを始め、教室に通うようになった。当時、盛岡市内には通年営業のリンクがなく、盛岡のリンクが開いている10月から3月の間以外は、青森の八戸や仙台のリンクに通った。

選手としての意識が芽生え、高まったのは小学4年生のころだった。全日本ノービス選手権(カテゴリーB)に初出場した佐藤の目に留まったのは、1学年上で表彰台に上がった羽生結弦(早大)、田中刑事(倉敷芸術科学大大学院)、日野龍樹(りゅうじゅ、中京大卒)らの演技だった。

「こっちがまだダブルジャンプを頑張ってるときに、もうトリプルジャンプを跳んでましたから、本当にトップ選手だな、と思いました。もっとレベルアップしたいな、と思いましたね」

小学校での教育実習で、フィギュアスケートと授業の共通点に気づいた

フィンランドで「表現力の佐藤」が芽生えた

中学1年生のときに転機が訪れた。全日本ノービス選手権(カテゴリーA)で2位になり、フィンランドでの国際大会に派遣された。日本代表だけが着られる「JAPAN」のジャージに初めて袖を通せた。演技を終え、佐藤を待っていたのはたくさんの拍手と歓声だった。

「言葉を使わなくても伝わるものがあるんだな」

佐藤の持っていた才能が花開き始める。「フィギュアスケートは世界でもやってると、肌で感じられました。より一層、表現するのが好きになったと思います」

もともと目立つのが好きで、お客さんを楽しませたいという思いを持っていた。中3まで彼の指導にあたった山崎久仁子コーチは、佐藤のよさを引き出そうとした。王道のクラシックだけでなく、コミカルな曲も踊らせた。カウボーイ、ロック、ジャズ、マンボ……。表現の幅が広がった。

高1から佐藤の指導を引き継いだ佐々木正徳コーチもさまざまなジャンルの音楽に挑戦させた。そこに佐藤操さんの振り付けが加わり、さらに磨かれた。佐藤は「毎年新しいものに挑戦してました」と振り返る。

独特の表現力でコミカルな演技もやりきってきた

岩手大教育学部で数学を専攻、趣味は素数

その後も盛岡市を拠点に練習を続け、地元の岩手大学教育学部に進学した。日本スケート連盟のプロフィールには、趣味の欄に「素数について学ぶこと」と記したこともある。

「昔から数学だけは予習復習をしっかりしてました。きれいに解けて、答えが決まってるのも好きだった。公式はつながってるじゃないですか。ある公式が別の公式の証明に使われていて、それが証明できてなければ、この公式もなかった。そういった歴史も楽しいですし、面白いなと思って」。数学について語るとき、とくに口が滑らかになる。

佐藤によると、数学の美しさとフィギュアスケートの美しさは違うのだという。

「数学は幾何学的に見て、納得して美しいものだと思う。要素が組み合わさって、わずかな式に膨大な歴史が入ってます。フィギュアスケートは見て、感じて美しいものだと思う。曲とマッチしているから美しいのか、全体とマッチしたポーズだから美しいのか、滑りが滑らかだから美しいのか、それは人それぞれで、全体の流れの中での『美しい』なんです」

数学での論理的思考がスケートに生きた

大学に入り、練習時間が確保できるようになると、1年生でジュニアグランプリ(GP)シリーズ、世界ジュニア選手権と国際大会を続けて経験。2年生のときに盛岡市に通年営業の「みちのくコカ・コーラボトリングリンク」がオープンしたのも追い風になった。大学からリンクまでは自転車で10分ほど。授業の合間にも時間を見つけては滑っていた。

数学を学ぶことはスケートに生きた。「ジャンプが崩れたとき、どんな状況でそうなったのかを振り返って、原因をつきとめる。試合までにどんな練習が必要なのか、経験も踏まえて組み立てる。そこには数学での論理的な思考が使えてたのかな、と思いますね」

引退エキシビジョン「明治×法政 ON ICE」に出演し、笑顔でお客さんに語りかけた

苦労した教育実習の時期、気づきもあった

3年生の夏には小学校の教育実習を経験した。地元の小学校で6年生のクラスを担当。その時期は、ほかの選手たちがプログラムを作り上げている一方、佐藤は練習を途切れさせないようにするので精いっぱい。午後11時からリンクで貸し切り練習をすることもあった。

教育実習を通じて気づきもあった。「授業でもフィギュアスケートでも、伝え方は一通りじゃない。こっちがしっかり理解してないと、言葉を尽くしても子どもたちに伝わらないことがあって、スケートも同じだなって。この曲で何を伝えたいのか、どのように滑るのかを明確にしていないでふんわりしてたらお客さんにも伝わらないし、審判にも伝わらない」

4回転トーループジャンプも習得。国際大会の表彰台にも立った。もちろん、2018年2月の平昌オリンピック出場も見すえていた。

羽生、宇野に続く「第3の男」に名乗り

4年生になり、オリンピックシーズンが始まった。日本の男子シングルの代表枠は三つ。前のシーズンの世界選手権で1、2位だった羽生と宇野昌磨(トヨタ自動車)が代表の最有力候補だった。3枠目に名乗りを上げたのが世界選手権代表の田中刑事、全日本選手権で表彰台常連の無良崇人(中京大卒)、全日本ジュニア王者の友野一希(同志社大)、そして佐藤だった。

数学の教員免許取得のため、中学校で教育実習をしながら練習を重ねた。GPシリーズのNHK杯にも初めて出場し、「異色の国立大生」と話題を呼んだ。そのときのショートプログラムはシルク・ドゥ・ソレイユより「トーテム」、フリーは戯曲「セビリアの理髪師」。躍動感あふれるステップと独創的な振り付けで、佐藤の魅力を存分に引き出すプログラムだった。

最終選考会となる全日本選手権は自身最高の8位。オリンピック出場の夢はかなわなかったが、学業とスケートの4年間をやりきった。

数学の先生になるかスケートの指導者になるかと悩んだ末、スケートに決めた。大学院に進学し、専門はスポーツにした。「20年近くやってきたスケートのすべてを生かせる道を考えました。スケートの指導者が自分に向いているのかな、と思いました」

スケートにも引き続き打ち込み、2度目のNHK杯出場、昨年末は6年連続6回目となる全日本選手権に出場。修士論文はジャンプの際の意識とコツをテーマに執筆した。「ここまでやりきれたのは自分自身の誇りですし、自信にしていきたいです」

思い出のプログラム「トーテム」のポーズをとってくれた

人として好かれるようなスケーターを育てたい

大学院を修了し、この春から指導者の道を歩み始める。どんなスケーターを育てたいですか? 「人として好かれるようなスケーターになってもらいたいです」

5歳から続けてきたスケートで得たものを、今度は子どもたちに伝えていく。

「フィギュアスケートは曲と演技と滑りがあってこそだと思うので、音楽の大切さ、曲を表現することの大切さを忘れないでほしいし、その楽しさをみんなに知ってもらいたいです。指導者としては一からのスタートなので、頑張りたいです」

競技者としての世界を広げてくれた国際大会を、佐藤が指導者として迎える日が楽しみだ。

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