フィギュアスケート

同志社フィギュア時國隼輔 自立を胸に岡山から京都へ、曲を変えて臨むラストシーズン

時國は柔らかい笑みを浮かべ、演技に入った(すべて撮影・大岡敦)

10月19日の西日本インカレ。来年1月のインカレ出場につながる大会に出るのも、これが最後だ。同志社大の時國隼輔(ときくに・じゅんすけ、4年、就実)は柔らかい曲調の「愛の夢」に合わせ、冒頭のトリプルフリップ+トリプルトゥループのコンビネーションジャンプを決めると、次々とジャンプに成功。最後のジャンプとなるループジャンプが1回転になるミスはあったが、目立ったミスはこれだけ。6位でインカレ出場をつかんだ。勝負の演技中にも関わらず、時國は楽しそうに演技しているように見えた。

「練習よりいいものが出てよかったです。でも回転不足だったり、細かいミスがあったり……。本当に練習不足なので、あと2週間でもっと詰めないと」と時國。111日からの西日本選手権までに、さらなるステップアップを誓った。

トリノオリンピックの雑誌でフィギュアを知る

時國がフィギュアスケートを始めたのは10歳のとき。小学校の図書室にあった2006年トリノオリンピックの雑誌を見て、フィギュアというスポーツを知った。両親にやりたいと伝え、スケート場に連れて行ってもらったのが始まりだ。

「運動神経がかなり悪いのに加えて飽き性だったので、どの習いごとも長くは続きませんでした。でも滑りに行ったら、ほとんどコケなくて楽しかったので、両親にお願いして始めさせてもらいました」と、当時のことを話してくれた。「新しい技ができるようになりたい」「もっと試合に出たい」。その一心で、練習に取り組んだ。

飽き性な性格だったのに、フィギュアスケートだけは違った

何度もフィギュアをやめようと思った

どのスポーツにも言えることだが、フィギュアスケートの場合はとくに家族のサポートが不可欠だ。曲をかけての練習は一般営業の時間外のみとするリンクが多いため、リンクへ送迎も含め、多くの選手たちは家族のサポートを得ながら競技を続けている。しかし時國は地元の岡山を離れ、京都にある同志社大への進学を決めた。それは時國自身が自立して頑張っていきたいという思いがあったからだ。

高校時代に師事していたコーチが担当する選手には、京都から岡山まで通って習うスケーターも数人おり、その中には同志社に通う選手もいた。年齢が近いこともあり、ときには悩みを相談しあった。学校も含め、いまの環境に不満はなかったが、その選手から大学の話を聞くうちに、だんだんと自立して頑張っていきたいという思いが強くなり、同志社に通う選択をした。

家族に支えながら競技を続ける中で、自立したいという思いが大きくなった

当時、京都には年間を通じて練習できる場所はなかった。そのため学校との距離も考え、練習拠点は滋賀に拠点を置くことにした。以前取材した際、時國は「一人暮らしで掃除や自炊を大変と思ったことはないし、有意義に過ごせてます」と話していた。しかし慣れない土地で暮らし、新しい練習環境で競技を続けていくのは、最初は大変なストレスだったことだろう。4回生になるまでに「フィギュアスケートをやめよう」と思ったことは数え切れないほどあった。それでも練習をサボったことは1度もない。「練習の成果を試合で出せたときのうれしさが忘れられなくて、ここまできました」。そう、笑顔で話してくれた。

最後のシーズン、表現力の問われる曲で臨む

 最後のシーズンだからと、とくに構えることなくコツコツと練習を続けてきたが、ただ一つ「最後だから」と選んだものがある。それはショート、フリーの使用曲だ。ショートはいままでやってこなかったパターンの曲である「マラゲーニャ」、フリーは時國が使ってみたかったという「愛の夢」だ。「マラゲーニャ」は最後にステップで終わりたいと振付師にお願いし、内容にもこだわった。「愛の夢」は柔らかい曲調ゆえにその表現が難しいが、だからこそ、とてもやりがいのある曲だという。

表現力が求められる難しい曲。だからこそやりがいを感じている

全日本選手権の最終予選である11月1日からの西日本選手権に向け、「実際に全日本で演技をするとなったら足がすくむと思う」と時國。謙虚で優しい性格の彼らしい言葉だ。今年の全日本選手権は12月18~22日に東京・代々木体育館で開催される。

時國は今シーズンで競技人生を終え、来春からは社会人として働く予定だ。全日本選手権という大舞台で、こだわりをもったプログラムをたくさんの人に見てもらい、悔いなく次のステップに進んでほしいと心から願っている。

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