早大・中塩美悠、そこにあるフィギュアとの別れ
演技前、リンクに降り立った中塩美悠(4年、ノートルダム清心)には笑顔があった。11月3、4日の西日本選手権で全日本選手権出場を決めた自信の表れなのかな、と私は思った。でも本人は「緊張しいなんです。『大丈夫、自分は大丈夫。私はこんなに余裕があるんだよ』と、自分に言い聞かせてるんだと思います。無意識なんですけど」。その緊張を抱えながら、95.73というシーズンベストで女子7.8級クラス優勝を果たした。
早稲田の仲間に頑張る姿を見せたい
西日本の疲れもあり、東インカレは構成通りの滑りではなかった。冒頭に予定していたコンビネーションジャンプがオーバーターンでトリプルトーループのみになったため、続くトリプルフリップをトリプルトーループに変更し、ダブルトーループを付けてコンビネーションに持ち込んだ。途中、ダブルがシングルになるシーンなどもあったが、西日本で失敗したサルコウを決めるなど、いまできる最高の演技を披露した。
今回の東インカレは早稲田の看板を背負っての試合ということもあり、中塩は「同期や後輩たちの前で頑張っている姿を見せられたら」という想いで臨んだ。後輩の永井優香(2年、駒場学園)と石塚玲雄(1年、同)も東日本選手権で全日本を決めた。後輩たちが頑張っているから私も頑張らないと。今シーズンで引退を決意した中塩は、彼女たちに刺激をもらって前を向く。
3歳でフィギュアに出会い、広島からアメリカへ
バレエやフィギュアスケートを見るのが大好きだった母に連れられ、中塩は3歳にしてフィギュアスケートと出会った。子どもにはいろんな経験をさせてあげたい、という母の想いだ。もちろん、そのときはただ観るだけだった。中塩が7、8歳のとき、双子の姉と兄とともにコーチに付いてもらってフィギュアを始めた。地元の広島では練習環境に限りがある。冬は広島で、夏は岡山で、週5日の練習を重ねた。学校が終わってから岡山へ車で2時間。1時間半滑り、また2時間かけて帰る。家に着くころにはいつも、23時をすぎていた。
フィギュアをやっている友だちはいなかったが、「きょうだい3人で始めて、3人で楽しくやってた」と言うように、中塩にとってはフィギュアが家族で過ごす時間になっていた。ほかのスポーツをしたいと思ったことは? 「ほかのスポーツができないんです。高校の体育の授業でテニスをやったときなんか、何もできなくて、すごく場違いでした。そのとき『私はフィギュアしかできないのかな』って思いました」。中塩は控えめに笑った。
姉と兄は大学受験をきっかけに、フィギュアをやめた。ふたりの姿を見て、中塩も高2までのつもりでいたが、時を同じくして強化選手に選ばれ、高3のときには海外試合が年5回ほどに増えた。「これは、スケートをしろってことなのかな」と感じ、早稲田大学人間科学部eスクール(通信教育課程)に在籍しながら、競技を続けた。
失意の渡米、林コーチとの出会い
大学1年の夏、広島のコーチに紹介してもらい、2014年ソチオリンピック団体戦銅メダリストであるジェイソン・ブラウン選手を指導するコーチの元で学ぶため、渡米した。しかし、けがが重なり、トレーニング方法や環境の違いにもなじめず、自分には合わないと実感した。帰国した中塩は大学1年の3月、兵庫に拠点を変え、林祐輔コーチの元で練習を始めた。そこからの日々について中塩は「やっと、フィギュアってこういうものなんだって分かるようになった」と語る。
当時は基本である片足でのスケーティングすらできず、林コーチに驚かれたという。中塩は基本から学んだ。スケートの本質を見つめ直すことで、足の使い方からジャンプまで、すべてが変わった。中塩はもともと、パワーでジャンプするタイプだった。振り回して跳ぶことで、大きなジャンプができた。しかし、筋力が落ちてきて、思うように跳べなくなった。いま心がけているのは、軸を決め、体幹で締めるジャンプ。力に頼らず楽に跳べるようになったという。「女子は大学生になって跳べなくなってやめちゃう人が多いんです。私もけがが多くて、日によってはまったく跳べないってこともあります。そんなときは『今日は基本からやってみよう』と考えられるようになりました」と話す。
高校のときはノーミスで演技することを毎日の目標にし、実際にできた。しかし、大学生になるとできなくなった。ずっとピークでいることの難しさを知り、練習量を調整するようにした。どうしたらけがをしないか。けがをしたからこそ、次はやり過ぎないようにしようという考えができるようになった。
引退を決めたのも、けがが理由だ。トーループで着く左足に骨挫傷を抱えていて、いまもトーループは本数を限定している。「トーループ以外は何でもできる。でも試合になると、下から追いかけてくる人たちもいるから、トーループをやらないわけにはいかないんです。いつまでトーループができるかって考えたら、いまかなって」
跳べなくなって、本当のスケートを知る
母の趣味をきっかけにして始めたフィギュアだったが、お金のかかるスポーツだという後ろめたさもあった。姉と兄は国公立大学に進んだ。「私ばっかりこんなことしてていいのかな」と思ってきた。すると中塩が照準を合わせて臨んだ先日の西日本選手権に、家族がそろって応援に来てくれた。「なんかもう、ものすごく恵まれてるって思いました。家族に支えられて、ここまでこられました」。中塩が、晴れやかな顔になった。
フィギュアをやってきてよかったことは? 「人として成長させてもらえたこと」と、中塩は言った。昨年、初めて全日本選手権で予選落ちした。フリーを滑られないむなしさ。舞台にすら立てないってこういうことなのか、と痛感させられた。「やっぱり、高3までは楽しかった。海外の試合もどんどん決まって、ジャンプも何も考えなくても跳べて、楽しいことばかりのスケート人生だった。いま思えば、おごってたなって思うんですよ。跳べないで悩んでる人を見ても、『頑張ったら跳べるじゃん』って思ってました。でも、大学4年間でいろんな挫折があったから、けがで苦しんでる人の痛みも分かるし、跳べないで悔しい思いをしてる人の気持ちも分かる」。人間としての幅が広がった。
今シーズン、フリースケーティングを映画『タイタニック』の曲にしたのは、中塩の強い希望からだ。映画自体が大好きで、「私もそんな大恋愛ができるようになったら使いたい」と思っていたが、引退を目前にして「いましかない」と林コーチに懇願。あこがれの曲で最後の演技に臨む。3歳で出会い、追い求めてきたという意味では、中塩にとってフィギュアスケートこそが大恋愛の相手と言えるんじゃないか。私はそんなことを考えながら、中塩が全日本でどんな最終演技を見せてくれるのか、楽しみにしている。