同志社大・笹原景一朗、笑顔でフィギュアにさよならを
4分間、こんなにも楽しそうに演技をする選手を見たのは久しぶりのように感じた。
11月4日に西日本選手権、6日に京都府の国体選手選考会、11日に関西インカレ、そして今回の西日本インカレと、疲労はピークに達していた。笹原も演技後、「西日本選手権にピークを合わせていたので、今回はその貯金の切り崩しです」と申し訳なさそうに語った。しかし、今回の演技は冒頭の3回転ルッツの着氷に若干の乱れがあったものの、観客がそのミスを忘れるかのような堂々とした演技だった。なぜそんなに笑顔で滑っていたのか。その問いに笹原は「僕の演技をみんなに見てもらえるのはあと数分、数秒しかないなと思って滑ってただけです」とまた笑った。
惜しまれながら引退したい
笹原は3歳でフィギュアスケートを始めた。最初は姉が通うスケート教室についていくだけだったが、気づいたときには自分もフィギュアを始めていた。スケート教室を卒業し、5歳のころには選手として活躍。スケートに対する思いなど意識したことはなく、当たり前のこととして毎日練習を積んでいた。
小学6年生で転機が訪れた。ホームリンクだった京都のスケート場の閉鎖に伴い、練習拠点を変えなければならなくなった。当時師事していたコーチは岡山のリンクで指導をすることに。岡山に通うことも考えたが、結局、関西のリンクを転々としながらスケートを続けることにした。スケートを辞める選択肢もあったし、同時期に股関節の疲労骨折で療養も余儀なくされた。それでも、スケートのことを考えた。スケートの動画を見ては、自分もジャンプしたいと何度も思った。「スケートがない人生を想像できなかったし、小さいころはスケートを辞めたいと思ったことはありません」と、当時を振り返る。
高校3年生で初めて全日本選手権に出場した。夢の舞台に緊張したが、「こんなに楽しくスケートが滑れる会場があったんだ」と喜びを感じた。何千人もの視線を浴びるのは、すごく気持ちのいい体験だった。「あの体験をもう一度したい」と願い、同志社大入学後も練習を重ね、1、2回生のときも全日本選手権へ出場した。
「大学限りでスケートは引退する」。大学に入学したときに決めたことだ。笹原の姉は大学でフィギュアスケートを引退した。最後の演技には大学の仲間だけでなく、ほかの大学の同期や後輩、そして社会人になった先輩など、たくさんの人が応援に駆けつけた。引退試合を終えた姉を一番近いところで見ていた。姉の顔は晴れ晴れとしていた。そのとき、「僕もみんなに応援してもらい、惜しまれながら引退したい」と心に決めた。
最後の夢の舞台をつかむために
3年生になるころに、当時の練習拠点だった大阪のスケート場も閉鎖になった。ちょうどトリプルアクセルも安定し、強化指定選手になれるかもしれないという大事な時期だった。あと2年しかない。そう思い、当時のコーチに懇願し、休学してアメリカでスケート漬けの日々を送った。トレーニングや表現のしかたを学び、ジャンプの調子も上がってきた。自信を持って全日本選手権の最終予選に臨んだ。
しかし、思うような結果を出せず、全日本選手権に届かなかった。すべてを捧げたフィギュアに裏切られたような気持ちになった。「もう、引退しようと思う」と家族に話した。笹原の気持ちを受け入れようとしていた母も、目には涙があふれていたという。その想いに触れ、笹原は「家族がここまで応援してくれているのだから、あと1年だけ、自分が納得するまでスケートと向き合ってみよう」と決めた。ここまで育ててくれ、トリプルアクセルを跳ばせてくれた恩師に感謝の気持ちを伝え、またリンクに立った。
「やらない後悔よりやった後悔」を胸に、思いつくことは全部試した。帰国してからは大阪の別のスケート場を練習拠点にしていたが、4回生になってからいまの滋賀に変えた。靴やエッジの種類も変えた。ラストシーズンで使う曲にこだわり、自ら探し求めた振付師に習った。スケートのことだけ考えていればよかったアメリカ生活から一変し、復学して学業の合間に練習の日々。しかし、悔いはなかった。
そして迎えた西日本選手権。どんな結果になっても受け入れる。そう心に決めて挑んだフリーの演技ではいまできる最大限の演技ができ、全日本選手権への切符を手に入れた。喜びよりも勝ったのは、「いままで支えてくれた人に恩返しの場を持ててよかった」という安堵感だった。
今年の全日本選手権は大阪開催ということもあり、家族総出で駆けつけてくれる予定になっている。この舞台に帰ってくるため、笹原はたくさんの努力をしてきた。たくさんの涙も流してきた。きっとその舞台では、これまで支えてくれたみんなへの感謝を胸に、何千人もの視線を浴びながら気持ちよさそうに演技をする笹原を見られることだろう。