関学大・永谷柊馬 65年ぶり春秋連覇を支えた扇の要、「これ以上ない」幸せな1年間
2024年は関西学院大学にとって歴史的な1年となった。春に2021年春以来となる6季ぶりの優勝を果たすと、秋は勝ち点5の完全優勝を達成。春秋連覇は65年ぶり、1982年の新リーグ発足後では初の快挙だった。正捕手を務めた永谷柊馬(4年、広陵)は「これ以上ない、人生でもこれより良い1年あるんかなと思えるぐらい良い1年でした。幸せでしたね」と振り返る。格別な1年を味わえたのは、中学3年時の進路選択がきっかけ。ここから野球人生が大きく変わり始めた。
広陵で見た宗山塁と渡部聖弥の衝撃
高校の進学先は地元広島の名門、広陵に挑戦した。声はかかっていなかったが、「広島と言えばというところもありましたし、僕らが中学3年の時は中村奨成さん(現・広島東洋カープ)の代で、甲子園で準優勝してかっこいいなというイメージもありました」。父親からは「3年間、冷や飯を食ってもいいんか」と言われたが、「どうせやるなら厳しいところでやりたい」と決意は固かった。
入学直後は周囲のレベルの高さに面食らった。同級生には宗山塁(明治大学から東北楽天ゴールデンイーグルス)や渡部聖弥(大阪商業大学から埼玉西武ライオンズ)もいた。「野球はすごかったですね。でも(2人とも)『あんなにすごくなるとは』って感じですね。今思えば、あいつらの野球に対する姿勢はすごかったので、それが大学で一気に伸びたのかなと思います」
宗山は地元も近く、広陵入学前から存在を知っていた。「オープンスクールでショートにめっちゃ動きがいいヤツがいて、『高校生が見本を見せてるんかな』と思ってたら、宗山でした」。渡部には入学後、肩の強さに度肝を抜かれた。「ノックで『キャッチャー入ってみろ』ってなって、後ろから見てたらとんでもない送球で。ピッチャーのひざの高さぐらいの送球を投げて『もう無理やん』と思いました。でも(渡部は)体が硬くて『キャッチャー無理』となって、良かったと思いました(笑)」と当時を振り返る。
先輩にも同級生にも力のある選手がひしめく中、永谷は2年春の県大会からベンチ入り。2年秋からは、スタメンマスクをかぶった。新チームは宗山が主将になったが、実は1カ月間だけ永谷が主将を務めた時期がある。「宗山を押しのけてキャプテンをやった」ことは一生の自慢だ。捕手としての技量も伸ばし、中井哲之監督から薦められた進学先は、文武両道を実践する関西学院大学。広陵から進んだ先輩たちは下級生の頃から活躍していた選手ばかりで、勉強も頑張ってきた永谷の努力が報われた瞬間だった。
サヨナラ打で開幕した4年の春
関西学院大では2年秋からベンチ入りを果たしたが、スタメン定着は最上級生になってから。4年春、初めてレギュラーとして迎えるリーグ戦には胸が高鳴った。「楽しみしかなかったですね。野球ではあまり緊張しないので、とにかく楽しもうという感じでした」
開幕戦でいきなりヒーローになった。近畿大学との1回戦。両チーム無得点で迎えた九回裏に1死一、二塁からレフト線へ適時二塁打を放った。サヨナラ打は高校時代、Bチームで戦った練習試合以来、人生2度目。公式戦ではもちろん初めてだった。「あの時も全く緊張してなくて、今振り返ったら冷静やったなと思います。真ん中内寄りの真っすぐを思いっきり引っ張ったんですけど、張っていたボールだったので冷静にバッターボックスに入れてました」
ただ、余韻に浸ったのは試合直後だけだった。「リーグ戦は2勝しないと意味ないので。負けてズルズルいったらこれまでと同じやと思っていたので、そこはすぐに切り替えて『次に』と考えてました」。この試合中、中心となる投手が靭帯(じんたい)を痛めて離脱した。捕手として、チームが白星を重ねる中でも楽観的にはなれなかった。「勝ててはいるけど、しのいでサヨナラというのも多かったので、キャッチャーからすると不安もありました」
決めたことをやりきり、優勝の瞬間はうれし泣き
そもそも開幕時点での前評判は、決して高くなかった。優勝候補と見られていたのは、半年後に中日ドラゴンズを含め4球団から1位指名を受ける金丸夢斗(4年、神港橘)を擁する関西大学と、ポテンシャルの高い選手がそろう近畿大。関西学院大は戦力的に頭一つ抜けているわけではなかったものの、4年生にまとまりがあり、自分たちで決めたことをやり切れる学年だった。普段からあいさつやごみ拾いなどを徹底し、試合でも全員が1球に集中して、何度も僅差(きんさ)の試合に競り勝った。
そして歓喜の瞬間が訪れた。「まさか優勝できるとは思ってなかったので、最高でした。泣いちゃったですね、春優勝した時は。いろんな不安があって、それが報われたのでうれしかったですね」。勝って泣く。これは人生初の体験だった。
秋は「連覇」という言葉が、チームのどこからも聞こえてこなかった。投手陣に故障や不調が相次ぎ、本荘雅章監督は「春優勝したチームが1勝もできなかったらどうしよう」という不安が拭えなかった。それでも春に勝ち切った経験が、チームを強くしていた。永谷は投手陣を引っ張るだけでなく、3割2分の高打率を残し「秋はどっしり構えられたと思いますし、勝った後でも反省点を出してリーグ戦の中で修正できてました」と胸を張った。春を上回る勝ち点5の完全優勝。野球は大学までと決めていた永谷は、最高の形で野球人生を締めくくった。
例年以上に興奮したドラフト会議
恩師である広陵の中井監督に電話で報告すると、「お前ホンマ幸せな大学野球やったな。よぉ頑張ったやないか」とねぎらわれた。特に昨年は、連覇以外にも普通の人では味わえないような日々だった。打席で見た金丸の球は「これは違うなと思いました。他のピッチャーとは全く違いました。当たんないですもん。こういうのがプロ行くんやなと思いました」。
ドラフトではリーグ戦でのライバルやかつてのチームメートが主役となり、例年以上に興奮した。年末には高校の同級生で集まり、その中には宗山と渡部もいた。大学球界のスーパースターも、永谷らにとってはチームメートという感覚が強い。そのため色紙を持参したのは1人だけ。即席サイン会では、それぞれ身につけているものの中で、白い部分をなんとか探した。
白球を追った日々は、大学で一区切りとなる。今後はこれまでの経験を生かし、培った人間力で勝負する。「いろんな良い巡り合わせがあって、すごく運が良い野球人生だったと思います。いろんな人に出会えて広陵、関学に行ったのも、良い選択やったなと思います」
大学ラストイヤーで65年ぶりの春秋連覇という偉業を成し遂げたことについては、「僕らが1年間やってきたことが、報われたのかなと。ぶつかったこともありますけど、関学の歴史に1ページを残せたというのは、すごい誇りに思うし、これから関学が強くなっていくための代を築けたかなと思ってます。野球が強い弱いは別として、良い組織にしていってほしいと思います」と永谷。刺激的な1年間を経て、社会に飛び込む。