フィギュアスケート

関学フィギュア・渡邊純也 選手として主将としてラストシーズンをやりきる

アイスダンスで鍛えたスケーティングが渡邊の武器(すべて撮影・大岡敦)

10月19日の西日本インカレで関西学院大の渡邊純也(4年、浪速)の名がコールされると、チームメイトからひときわ大きな声援が送られた。ジャッジ席に触れるほどの位置から、渡邊の演技が始まった。

冒頭のトリプルルッツを決め、続くトリプルサルコーにも成功。予定していたトリプルジャンプがいくつかダブルにはなったが、ジャッジへのアピールが多く、ここまでアピールする選手はいないのではないかと、プログラムを見て感じた。渡邊は5位で全日本インカレへの切符を手にし、団体で関学の初優勝に貢献した。

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出だしをけがに悩まされたラストシーズン

ここ数カ月、渡邊には不運が続いた。就活を終え、ようやく練習に時間を費やすつもりが、けがに見舞われてなかなか練習ができず、もどかしい思いをした。少しずつ調子を戻してきたが、8月中旬のサマーカップはけがの影響で調整が間に合わずに棄権。10月初旬の近畿選手権には、ジャンプに関して詰めきれないまま出た。そして今回の西日本インカレ。近畿選手権から2週間もなかったが、追い込んで練習をした成果がきちんと出てくれた。「この2週間でここまで戻せたのは自信になりました」と、声も弾んだ。

現在は関学アイススケート部フィギュア部門の主将を務めており、部活以外での時間も都合がつく限り、大学からフィギュアを始めた後輩たちに指導をしている。ときには厳しく言うこともあるが、一人ひとりにいまの課題を伝えるあたり、部員のことをよく見ている。大学卒業後は一般企業に就職。選手生活は大学限りで終える予定だ。そのまま関学のコーチになる選択肢もあったが、両親と話し合い、自身で納得して答えを出した。

シングルもアイスダンスも

兵庫県出身の渡邊には3歳上の姉がおり、最初は姉がフィギュアを習っていた。練習が終わるのを待つ時間が退屈で、ときには母とスケートをしながら遊ぶこともあった。いつからか渡邊もスケートを習うことになった。最初は週に1、2回程度だった。小3になり、野辺山合宿(日本スケート連盟主催の全国有望新人発掘合宿の通称)の参加基準を満たせるかもしれないと分かったとき、フィギュアを本格的に始めることにした。

姉をきっかけにフィギュアスケートを始めたが、当初は習い事の一つという位置づけだった

すると同時に転機が訪れた。渡邊が拠点を置いていたのはいわゆる「シーズンリンク」。冬はスケート場で、夏場はプールになる施設だった。習い始めた当初は、冬は神戸、夏は姫路のリンクでの練習が通例だったが、2006年に姫路のスケート場が閉鎖。夏に練習をするには大阪のスケート場を転々としなければならず、学業に支障が出るのが懸念された。渡邊の両親は教育関係の仕事に就いており、学校を遅刻や早退してまでスケートを続けることにいい顔はしなかった。そのとき師事していたコーチから離れ、家族で大阪に引っ越し、年間を通して同じ場所で練習のできるクラブに移籍した。

大阪の練習環境に慣れたころ、ある女子選手からアイスダンスをやってみないかと誘われた。最初は乗り気ではなかったが、シングルで競技を続ける上で役立つことがあるかもしれないと思い、その誘いに乗ることにした。やり始めてみるとスケーティングがよくなり、シングルの成績も少しずつ伸びてきた。

だが日本ではアイスダンスを練習する環境がシングルスケーターほど整ってはいない。貸し切りが深夜になることもある。夏休みはカナダで練習を重ねた。それ以外の平日は地元でシングルの練習をして、週末はナショナルトレーニングセンターである中京大でアイスダンスの練習。息つく暇もないほど忙しかった。そんな生活の甲斐もあり、アイスダンスでジュニアグランプリに派遣された。数年間はハードスケージュールな毎日でも頑張れたが、関学への進学を機に、シングル一本でやっていくことにした。

アイスダンスとシングルの練習、そして学業と、高校時代は多忙な毎日だった

どんなスポーツでもそうだが、フィギュアスケートも練習を休むと感覚が鈍ると言われている。とくに日常生活にない回転の動作は、ジャンプに影響する。勝つためには大きな得点源となるトリプルアクセルの習得も必要だったが、2回生のころには練習を休まなければならないほどのけがをするようになった。けがのせいでジャンプの練習ができない日もあったが、その分、アイスダンスで習得したスケーティングの技術を磨き、演技構成点を上げる作戦にシフトチェンジした。その戦略がうまくはまり、ジャンプなどの技でミスが出ても、スケーティングが評価され、いい結果がついてくるようになった。

あこがれの全日本へ、まず関西インカレで団体Vを

迎えたラストシーズン。悔いのないスケート人生にしようと考え、準備してきたが、どうしても一つだけ心残りがあった。学業を優先したために離れ離れになったコーチのことだった。

そのコーチから離れたときとは状況が変わり、兵庫県に通年営業のリンクがオープンしたのを機に、渡邊も夏場はそのリンクを拠点に練習をしている。「まだまだ教わりたいことがたくさんある」。そう思っていた段階で離れたため、心の中でずっともやもやしていた。もちろん、そのあとに師事していたコーチにもたくさん教わりたいことがあった。悩んだ末、最初にスケートを教えてくれたコーチの元に戻った。

3回生になって就活が始まり、なかなか練習時間がとれない状況でのコーチ変更で、練習時間の捻出に苦労する部分はあった。それでも少しずつ調子が上がってきているのは実感していた。

最後の全日本ではすべてを出し切る

ラストシーズンが始まった直後は、けがの影響で思うような結果が出なかったが、西日本インカレで自信を取り戻した。それから2週間後、全日本選手権の最終予選となる西日本選手権には強い気持ちで挑んだ。西日本インカレを終えた直後、渡邊は「全日本はあこがれの場所。いまの実力じゃ無理」と語っていたが、西日本選手権では大きなミスなく演技を終えられ、結果は7位。堂々と4年連続4回目となる全日本への切符を手に入れた。

全日本を目指す選手は自分の練習をベースに予定を組み立てる選手が多い。しかし渡邊は、主将としての責任を強く感じている。11月23、24日の関西インカレで、関学の目標は「団体優勝」だ。西日本インカレとは違って全カテゴリーの結果が反映されるため、渡邊は部員の指導にも力を入れている。

多くの選手が来年1月の国体での引退を考えているが、渡邊は「出られるのならぎりぎりまで試合に出て、スケートをやりきりたい」と話してくれた。残りわずかな選手生活を心ゆくまで楽しみ、やりきってほしい。

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