柔道

特集:東京オリンピック・パラリンピック

大野将平、2連覇へ「やっと点が線に」 1年延期で見いだした答え

柔道男子73kg級準々決勝で勝利した大野将平(撮影・加藤諒)

 「やっと、点が線になりました」

最多は日体大の16選手! 旗手の早大・須﨑優衣ら東京五輪に70人余りの学生選手

 東京オリンピック(五輪)柔道男子73キロ級の大野将平(29)=旭化成=は7月半ば、講道学舎(東京・世田谷、現在は閉鎖)時代の恩師の持田治也さんに電話でそう告げた。

 2016年リオデジャネイロ五輪で金メダリストとなり、大野は、東京五輪で頂点を目指す明確な大義をなかなか見つけられないでいた。

 しかも、コロナ禍で大会は1年延期。自省する時間が増えると、考えを巡らせるようになった。

 1964年東京大会で五輪に初めて採用され、日本武道館で行われた柔道が、57年ぶりに帰ってくる。

 いくつもの縁があったことに気づいた。

 拠点とする天理大柔道部の初代監督が、64年東京大会で日本代表監督を務めた松本安市さんであること。

 その松本さんが指導したのが、無差別級で金メダルを取ったアントン・ヘーシンク(オランダ)。

 ヘーシンクの優勝を機に、日本柔道再建を目的に作られたのが講道学舎で、自分がその門下生であったこと。

 日本代表の井上康生監督の下で、2連覇をめざすこと。

 自分と、日本の柔道史をつなげる「線」が見えた。

 大野にとって中高6年を過ごした柔道私塾・講道学舎は人生を学んだ場所だ。

 練習の厳しさはもちろん、寮生活では理不尽な上下関係があった。落ち度がないのに、先輩から殴られることもざらだった。「正直、二度と戻りたくない」。大野は苦笑いで振り返っている。

 朝から晩まで柔道漬け。文字どおり、汗と血と涙の日々だった。それでも「普通の青春を送りたかった」とは思わない。心身を削るような10代が、大野将平という柔道家を築いたことをよく自覚している。

 それは、戦い方、組み手にもよく表れる。

 大野はよく相手の道衣の脇のあたりを持つ。動きが多くてつかまえづらい手の袖と違って、体幹に近い脇の辺りは、握力が必要となるが、持ちやすい。現在の世界の柔道とはひと味違う、「組み合って投げる古き良き柔道」のスタイルだ。

 先輩たちの姿勢にも影響を受けた。今年亡くなった古賀稔彦さんのほか、吉田秀彦さん、滝本誠さんら数々の名柔道家を生んだ講道学舎。特に、体重無差別の全日本選手権で大きな選手に立ち向かう古賀さんの姿を見て、大野はよく重量級の選手たちと稽古を積み、中量級ながら全日本出場に並々ならぬ意欲を見せる。

 リオ五輪で優勝した後、喜びをあらわにせず、深々と一礼したのも、持田さんが相手への敬意を欠かさぬように諭していたから。大野はかつて「高校生くらいからかな。勝った後の自分の行動や態度を、すごく考えるようになった」と話していた。

 日本柔道の歴史が積み上げてきたものを受け継ぐ自分が、日本武道館の畳の上に立つ。そこに意義を見いだした大野は、持田さんを安心させるように言った。

 「(準備は)整いました」

(野村周平)

=朝日新聞デジタル2021年07月26日掲載

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