陸上・駅伝

特集:駆け抜けた4years.2023

箱根駅伝常連の国士舘大 “実績なし”の主将・木村聖哉が発揮したリーダーシップ

国士舘大の主将としてリーダーシップを発揮した(撮影・浅野有美)

駅伝強豪校の主将と言えば、輝かしい実績やずば抜けたタイムを持ったリーダーをイメージするかもしれない。国士舘大学の木村聖哉(4年、流通経済大柏)はどちらもないリーダーだった。箱根駅伝7年連続出場へと導いた主将が考える理想のリーダーシップ、強いチームづくりとは。大学卒業を前に競技人生を振り返った。

指導者に恵まれ、陸上の道へ

木村は千葉県松戸市出身。陸上に取り組むきっかけになったのは、小中学校で駅伝強豪校出身の先生たちとの出会いだった。小学校では順天堂大学で箱根駅伝に出場した村上真さんの指導を受け、校内のマラソン大会で優勝した。

中学校では東洋大学出身の蓑和廣太朗さんに出会った。木村はサッカー部に所属していたが、3年で東葛飾地方中学校駅伝競走大会に出場し優勝。そこから本格的に陸上に取り組むようになった。蓑和さんは「夢の実現」という言葉を大事にしており、木村は「夢を持つ大切さや、夢を実現するために何が必要なのかということを考えることを教えてもらいました」と言う。さらに当時のチームには同じくサッカー部から陸上の道へ進んだ青山学院大学3年の佐藤一世(八千代松陰)もいた。指導者や仲間に恵まれ、襷(たすき)をつなぎ、チームで一つのものを達成する駅伝の魅力にはまった。

高校は流通経済大柏に進学。全国高校駅伝(都大路)に出場し、青学大の主将を務めた鈴木塁人(たかと、現・SGホールディングス)に憧れて同じ高校を選んだ。国士舘大で箱根駅伝に出走経験がある菅原和幸監督のもとで力をつけ、3年でチームの主将を務めた。都大路を目指したが八千代松陰に県予選会で敗れ、出場はかなわなかった。

「自分でもできる」成長を信じて国士舘へ

大学は箱根駅伝常連で菅原監督の母校でもある国士舘を選んだ。「とびきり速い選手がいて、もう勝てないという印象より、下の選手も頑張って伸びて箱根駅伝に出場したり、記録を大幅に伸ばしたりする先輩たちの姿を見て、自分でもできるんだなっていうのを感じて入学しました」。教職への憧れもあり、教員免許を取得できることも志望理由の一つだった。

チームは選手約80人の大所帯。そこから約25人の選抜メンバーに選ばれるのは簡単なことではない。木村も大学2、3年は選抜チームに選ばれ、練習にも手応えを感じていた。特に1年から箱根駅伝に出場している同学年の清水悠雅(鯖江)には刺激を受けた。けがをせずコツコツ練習を積み上げ成長する姿は「国士舘らしい選手」を体現していた。

さらに3年の時は中学校の社会と高校の地歴、公民の教員免許取得のため勉強との両立にも励んだ。1限から5限までびっしり講義があり、母校の高校で教育実習もあった。練習がフリーの時は免許取得のために費やした。

いよいよ駅伝シーズンという頃、状況が暗転。右足のアキレス腱(けん)を負傷して約5カ月間、競技離脱を余儀なくされた。だが、木村のモチベーションは落ちなかった。「箱根駅伝に出たい思いは人一倍強かったと思います。自分で自分を信じ、『自分はできるんだ』と言い聞かせてやっていました」

勉強と両立し、教員免許も取得(撮影・浅野有美)

実績がない主将に反対の声も

そのシーズン、国士舘大は6年連続の箱根駅伝出場を決めた。本選を前にした2021年12月、新体制を決めるミーティングが開かれた。

1年の時から学年のリーダーを務めていた木村は主将候補だった。木村を推す声がある一方、異を唱える部員もいた。「半分半分ぐらいに意見が分かれて。自分はずっとBチームにいて、実績もなくて、予選会も箱根駅伝も出たことがなくて。今までのキャプテンはそれらを経験していたので、不安とか反対の声はありました」

話し合いをへて木村が主将になることが決まった。「自分の競技実績を出さないといけないし、かつ、チームの実績も気にしないといけないというプレッシャーが強くありました」と当時を振り返る。

“実績がない”リーダーがチームを引っ張るにはどうしたらいいのか。参考にしたのは高校時代の恩師だった。「菅原監督が尊敬できるタイプの方で、マイナスのことは言わないし、常に感謝の気持ちを述べていました。弱い選手にもどうやったら強くなれるか、プロセスを話してくれました」

高校時代の主将の経験も生かした。「チームをまとめるには人望が大事かなと考えていました。組織の中で学年や実力に関係なく大切にすること、悪口を言わない、素直に接する人間を自分の中で人望がある選手と思ったので、そこは意識していました。学年が下の選手や力のない選手も含めてチームだと考え、彼らへの声かけや気遣いをするようにし、逆に厳しくするところは平等に接してきました」

リーダーには人望が大事だと考えていた(撮影・浅野有美)

「目標シート」でチームに変化

大所帯のチームを俯瞰(ふかん)する中で見えてきた課題が、目標に対する取り組みの差だった。「できる選手は個人で努力できるのですが、取り組み方がわからなかったり、スタッフが少なく目が行き届かなかったりする選手もいました。箱根駅伝に出たい思いはあるけど何をすればいいのかわからない選手が多くいました」

その課題を解決するために提案したのが「目標シート」だった。年間と月間の目標とタイム、その達成のために必要な具体的な取り組みを決め、月末のミーティングで振り返るようにした。LINEのアルバムに入れてスタッフとも共有。スターバックスコーヒージャパンCEOを務めた著者のビジネス書も参考にし、「リーダーを細分化する方が効率的」と考え、できていない選手がいたら学年のリーダーにフォローをお願いした。

すると、夏頃から朝練習の姿勢に変化が現れた。「朝練習でストレッチ何分しますとか、補強何分やってから走りますとか書いたことで、それぞれ責任感が生まれ、朝練習に来る時間が早くなりました」。午前5時半には選手がそろい、準備の時間をきちんと取れるようになった。

自己ベスト更新時に履いていたシューズ(撮影・浅野有美)

夢が途絶えた後に自己ベスト

チームの取り組みは改善してきたものの、その後は苦難が続いた。夏合宿直前に木村がコロナに感染してしまい、夏合宿参加を断念。選手個人として練習を積めないだけでなく、チームとして主将がいない中で合宿をこなすことになり、「本当にヤバイ」と思ったという。さらに予選会を想定した練習でAチームの調子が上がらず、気持ちに甘えも見えた。危機感を強めた木村は監督に練習内容を相談し、選手一人ひとりの状態を丁寧にチェックするようにした。

10月の箱根駅伝予選会は危うかった。残り3km付近で予選落ちの可能性もあり、木村は必死で選手を鼓舞した。ギリギリの10位で本選出場が決まり、この時ばかりはうれし泣きした。

11月、箱根駅伝メンバー選考を兼ねた10000m記録挑戦競技会があった。木村にとっては最後のチャンスだった。しかし、結果を出せずメンバー入りはなくなった。自身の夢が途絶えた瞬間だった。

その後はチームのため主将の仕事に専念した。「メンバー選考が終わり、4年生にとっては消化試合みたいなんですけど、その中で結果を出すことがチームの勢いにつなげられると思っていました」。本選までの記録会で自己ベストを出すことに目標を切り替えた。

すると、12月17日の国士舘長距離競技会5000mで14分29秒65を記録し、自己ベストを20秒以上更新。さらに12月24日の法政大学競技会10000mでは29分50秒20を出し、初めて30分を切ることができた。

「自分の陸上人生の中でもトップクラスの記憶に残るレースでした。今までは箱根に向けて、夢に向けて、目標に向かって走るレースだったんですけど、その記録会が終わってからはチームのために走るレースに変わったというのが大きかったです」

主将の記録更新はチームに勇気を与えた。

理想は人を大事にするリーダー

箱根駅伝当日、木村は関係者が乗車するバスで全区間を回り、出走前の選手に声をかけた。「チームに走りで貢献できない申し訳なさっていうのはずっとありました」と明かす。その分、チームメートを信じていた。最後はフィニッシュ地点でタオルを手に待ち続けた。総合19位でゴールに飛び込んできたアンカーの川勝悠雅(1年、洛南)をしっかりと抱きしめた。

「楽しかったな」

4年間苦しいこともたくさんあったが、最初に湧いてきた感情だった。

フィニッシュ地点でアンカーを迎えた木村(中央、撮影・藤井みさ)

大会後、多摩キャンパスの陸上競技場でミーティングがあった。監督や部員から「木村がキャプテンでよかった」とねぎらいの言葉をかけられた。「自分でよかったんだな」。そう思えた瞬間だった。

卒業後は一般企業に就職し、競技生活に区切りをつける。

「大手町のゴールラインで『楽しかった』と感じられたのは、今までたくさんの方々の支えがあったからです。これまでの経験は自分の財産になったと思います。この4年間は今後人生を生きていく上で絶対糧になるし、思い出だけじゃなくて、原動力になると思います」と、陸上人生を総括した。

社会人として理想のリーダー像についてこう語る。「いろんな立場の人がいると思いますが、人を大事にする、人の思いを大事にする人になりたいです」

“実績なし”から始まり、リーダーの仕事を全うした木村。学生時代の経験を生かし、きっと新たなステージでもキャプテンシーを発揮していくだろう。

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