陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

国士舘大で箱根駅伝出場から「ランナーズ」編集長へ!黒崎悠さんのランニング人生

国士舘大学で箱根駅伝に出場。現在は雑誌ランナーズの編集長をされている黒崎悠さんにお話を伺いました

今回の「M高史の陸上まるかじり」は黒崎悠さんのお話です。正則学園高校で全国高校駅伝に出場。国士舘大学では主将も務め、箱根駅伝にも2度出場しました。卒業後は株式会社ランナーズ(現・株式会社アールビーズ)に就職し、ランナーズ編集部に配属。現在はランナーズの編集長を務められています。

野球少年から陸上の道へ

東京都大田区で幼少期を過ごした黒崎さん。小学校では野球をしていましたが「あんなに小さいボールにあんなに細いバットで当てるのが難しくて(笑)」と野球よりも持久走が得意な少年でした。 

中学でもクラブチームで野球をやっていましたが、野球の体力作りのために学校では陸上部に。そこで楽しさを感じ、1年生の冬には陸上に専念することになりました。

中学時代3000mのベストは9分42秒。東京都大会止まりだったものの、駅伝では大田区中学駅伝で優勝。「周りがそこまで強くなくて勘違いできました(笑)。ただ、そこで勝つ喜びを経験できたのは大きかったですね」。ちなみに、大田区中学駅伝は大田区の六郷が会場です。六郷といえば箱根駅伝の1区、10区で通過する六郷橋。その後、大学で箱根駅伝10区を走ることになる黒崎さんにとって「あの駅伝が原点ですね」と大切な場所となりました。

正則学園高校へ

高校は正則学園高校へ。黒崎さんが中学3年生の時に、正則学園高校は創部4年目ながら東京都高校駅伝で初優勝を飾り、全国高校駅伝(都大路)初出場を決めました。

のちに中央大学で活躍された原田聡さん、亜細亜大学で箱根駅伝に出場した五十嵐利治さん(現・拓殖大学女子陸上競技部監督)、卒業後はお笑い芸人の道に進むことになった宇野けんたろうさん(げんき〜ず)といったメンバーでの初優勝でしたが、実は中学時代は3000m10分台だった選手ばかり。そこから猛練習で都大路出場を果たしたのでした。

当時、指導されていたのは菅原和幸先生(現・流通経済大学柏高校陸上部監督)。黒崎さんが初めて読んだ陸上関係の本が、神奈川大学箱根駅伝初優勝(1997年)までの道のりを描いた「夢は箱根を駆けめぐる」(洋泉社)でした。「本の中で就任したばかりの若き指導者、大後栄治監督が科学的トレーニングを一早く取り入れて、高校時代に実績のなかった選手を強くしていく過程が、当時20代だった菅原先生と重なる気がしていました」と教えていただきました。

ちなみに黒崎さんはランナーズの編集者になってから大後監督が執筆する連載を2回担当。「2009年に神奈川大学が19年ぶりに箱根駅伝予選落ちした直後に、大後監督に連載をお願いしに行ったんです。『夢は箱根を駆けめぐる』を読んだ時には想像すらできなかったことです。この時は絶対的エースの育成が課題とお話されていましたが、それから約10年後に現マラソン日本記録保持者の鈴木健吾選手を育てたわけですから、大後監督からは今でもたくさんのことを学んでいます」とのことです。

入学してからは「本格的な先生に見ていただける、強いチームに入ったということで嬉しかったですね。キツさよりも嬉しさが大きかったです」。高校に入ってすぐ5月のタイムトライアルでは3000mも一気に30秒もベスト更新。

「学校が皇居の近くにあったので、朝練で毎日皇居を1周していました。皇居を走った周回数は相当になりますね(笑)」。本練習は夢の島にある土の400mトラックで行われることが多く、じっくりと力をつけていきました。

夏の猛練習を乗り越えて、念願の都大路へ

都大路出場を目指して正則学園高校へ入学したものの、東京都高校駅伝では1年生の時に4位、2年生の時に3位でした。「同級生で中学時代から強かった選手がみんな國學院久我山高校に集まっていました。ただ、先輩たちが3000m10分台の選手が集まっても成長を遂げて都大路に行ったのを信じて練習に励みました」

高校3年生の東京都高校総体では5000m予選落ち。「一番悔しかった」というほどの思いを味わいましたが「そこから練習もっとしなきゃなと思いました」と夏合宿を迎えました。

菅原先生の名物とも言われる岩手県室根村(市町村合併により現在は一関市)での3週間に及ぶ夏合宿。「自然に囲まれたところで、コンビニもなく、当時は携帯電話の電波もつながりませんでした。公民館のようなところで皆が雑魚寝。ホテルや民宿ではないので食事の準備や配膳、風呂やトイレの掃除も自分たちでやる、走るだけではない合宿でした」。村の方が地元の野菜を持ってきて料理をしてくださるなど、人の温かさも感じることができました。

「秋になって明らかに強くなりました。涼しくなって一気に走れるようになりましたね」と夏の猛練習の成果、手応えを感じていました。

迎えた11月の東京都高校駅伝では、黒崎さんは4区を任されて区間賞を獲得。2位でもらった襷を先頭に押し上げる快走。チームも逃げ切って3年ぶりの優勝を飾り、都大路行きを決めました。「陸上人生で一番嬉しかったですね。残り2km地点で國學院久我山と30〜40秒離れているという情報が入ってきて、待っている間は夢のような気分でした」

全国高校駅伝で3区を走る黒崎さん。後半失速し、思うような走りができませんでした(以下写真すべて本人提供)

そして、憧れだった都大路では準エース区間の3区を任されましたが「完全に雰囲気にのまれました。前半飛ばしすぎて後半撃沈しました。力を1ミリも発揮できずに終わってしまいました」とほろ苦い都大路となりました。

それでも高校時代は恩師・菅原先生のもとで心身ともに成長。「何事も誠意を持って取り組むことの大切さや、本気で何かを目指す世界において表面的な取り組みは通用しない、ということを学びました」。高校時代の経験がその後の人生の土台になっているそうです。

国士舘大学で取り組んだ朝練とコソ練

高校卒業後は国士舘大学へ。高校の恩師・菅原先生の母校ということと、体育学部があり保健体育の教員免許がとれることもあって進学を決めました。

同学年は17人。寮生活が始まり日本全国の選手が一緒に住んでいる新鮮さを感じたそうです。一方で「高校時代の5000mのベストは15分06秒で、同期の中でも8〜9番手でした。チームが箱根に出場しても、このままでは自分は箱根を走れないと思い、他人と何か違うことをしないといけないと感じたんです」。とはいってもポイント練習をさらに追加で頑張るのは難しく、故障のリスクも高まります。そこで黒崎さんは朝練習を他の選手よりも頑張ると決めたのでした。

ちなみに朝練を人一倍頑張るという習慣は「朝に勝負する」ということで社会人になった今でも続いているそうです。「ランナーズの企画もほぼ朝考えています。朝が一番集中できますね」

さて、朝練を他人よりも頑張った結果ですが、下級生の頃は故障も増えてしまったそうです。故障明けでポイント練習に合流する前に、黒崎さんはもう一つ工夫をしていました。「国士舘大学多摩キャンパスは近くが丘陵地帯になっているので、プチトレイルのようなコース(公園)があるんです。そこで坂を猛ダッシュするなどのコソ練をひとりでしていました!ポイント練習よりもキツかったですね(笑)」。当時ご指導されていた五十嵐克三コーチのもと、自主性を重んじるチームだったのも黒崎さんに合っていたそうです。

学年で8〜9番手という持ちタイムで入学した黒崎さんですが、朝練やコソ練の成果も発揮して、2年生になると箱根予選会のメンバーに。さらに3年生で箱根駅伝のメンバーに入るまでの成長をとげました。

大学3年生で出場した箱根駅伝では直前の故障もあり悔しい結果となりました

ところが3年生で迎えた箱根駅伝の直前に試練が待ち受けていました。「箱根1週間前に故障してしまったんです。刺激を入れたあとに全然走れなくなりまして。治療院にも通ってなんとか挑んだのですが、ほぼ練習できずにのぞみました。自信もなくてどうやって痛みをとるか考えていましたね。心も体も万全じゃなかったです」。区間19位という悔しい箱根デビューとなりました。

主将として再び箱根路へ

なんとか箱根出場を果たしたもののその代償は大きく、そのときに痛めた坐骨神経痛が長引いて、約半年近く走れない日々が続きました。しかも4年生になって主将に就任した黒崎さんにとって、走れない日々は辛いものでした。

転機となったのは6月の教育実習でした。「母校に戻って久しぶりに皇居を1周したんです。そこまで痛みがなく走れたんです。そのあとも痛みがないことはなかったですが、痛みが消えるまで待っていたら卒業になってしまう。痛みと付き合いながら最後の箱根に懸けました」。競技としては大学までと決めていた黒崎さん。治療院に通いつめながら陸上人生を懸けての挑戦でした。

10月の箱根予選会には間に合わなかったものの「いま自分ができること、自分が確実にできることのレベルを上げていくことに集中しました」。そして、11月の合宿で調子が上がり、なんとか箱根に間に合うことができました。

主将として挑んだ最後の箱根駅伝では思い出の六郷も通過するアンカーを任されました

ハーフマラソンでも1時間04分28秒で走っていた黒崎さん。この年はアンカー・10区を任されました。中学時代に駅伝で六郷を走り、地元・大田区を通過する10区ということで特別な思いもありました。さらに「襷をもらった時が下の方でシード権も難しかったので、なんとか後輩たちにつなげたいと思って走りました」。区間12位の走りを見せた黒崎さん。チームは総合19位のままでしたが、一斉スタートだったことで見た目の順位を上げてのフィニッシュとなりました。

大学4年間で学んだことは「結果は、自分がやったことが全て、ということですね。当たり前といえば当たり前ですが、自分の意志で行動を変えること以外に進歩する方法はないことを身に染みて実感しました」と自主性や自己管理能力も磨かれた4年間となりました。

雑誌「ランナーズ」編集部へ

大学卒業後は株式会社ランナーズ(現:株式会社アールビーズ)に入社されました。研修を経て、1年目の夏から配属されたのはランナーズ編集部でした。

ランニング雑誌でおなじみ「ランナーズ」の編集部署ということで「昔から読んでいた雑誌がこういう風に作られているんだと純粋に勉強になりましたし、市民ランナーの方がなぜ走るのか理由を知るのが楽しかったですね」。

例えば100kmウルトラマラソンに出場する方の中には会社経営者も多いそうですが「レースや練習などで何時間も走るわけですが、その時間で新聞を読もうと思えばいくらでも読めるし、商談もできるわけです。それでもなぜ長時間走るのか? 相当な理由があるはずと探求したい気持ちになりました。もちろん身体が健康じゃないと心も健康じゃない、という大前提もあります」

職場の仲間と富士登山駅伝にも出場

2007年2月に東京マラソンが開催され、全国的に都市型マラソンが新設されるようになりました。黒崎さんも実際に数多くのマラソン大会を走ったり取材したり、全国を飛び回りながらランナーズを作っています。サロマ湖100kmマラソンで、写真を撮りながら出走取材したこともありました。

「ランナーズで前提にあるのは、1ページ目から最後のページまでランニングの素晴らしさを伝えることです。皆さん、人生で無数の選択肢がある中でランニングを選択しています。何かの理由があってランニングを選択した人に共感し、専門的な角度から肯定したいですね」

編集長として「誰にでもできることを、誰にでもできないくらい続ける」

2018年9月からは編集長に。編集長の立場になって心がけているのは「編集者としての基本を誰よりも徹底すること」でした。「以前、取材した方の言葉で『誰にでもできることを、誰にでもできないくらい続ける』という言葉が印象的でした。当たり前のことを当たり前にやることですね」。そのためにも徹底した積み重ねを大事にして、編集長になった今でも現状打破し続けています。

編集長になって3年目となり、最近では「ランナーズ+メンバーズ」というサブスクリプション方式の年間サービスを始めました。「ランナーズが毎月届くのはもちろん、過去10年分の記事がデジタルで読み放題です。さらには毎週末開催しているTATTAサタデーラン走り放題、「知っ得」スペシャル動画やコラムも毎月配信しています」と新たな挑戦にも取り組んでいます。

これからも黒崎さんのランニングライフは続きます!

「走ることに関わる人生ですね。他は今のところ考えられないです(笑)。走る方って皆さん前向きですし、そんな向上心のある方に囲まれて生活していて幸せなことです。これからも今できる範囲で、広い意味で、ランニングを通じて心と体の健康を増やしていくことが目標です」。

走ることに打ち込み、走る人全てを応援することに人生を捧げる黒崎悠さん。まさに「No Marathon,No Life」!これからも黒崎さんのランニング人生は続きます!

M高史の陸上まるかじり

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