陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

東京学芸大OB・中田崇志さん 自己記録更新とブラインドマラソン伴走者としての挑戦

パラリンピックや世界選手権など伴走経験も豊富な中田崇志さん(右)。ご自身もアスリートとして挑戦し続けています(写真は本人提供)

今回の「M高史の陸上まるかじり」は中田崇志さん(41)のお話です。東京学芸大学では日本インカレ3000mSCで7位。NTTグループではニューイヤー駅伝にも出場しました。また、アテネパラリンピック男子マラソン金メダル・高橋勇市選手の伴走やロンドンパラリンピック男子5000m銅メダル・和田伸也選手の伴走などガイドランナーも務められています。

中学から陸上競技の道へ

宮城県仙台市生まれの中田さん。小学校ではバスケットボールをやっていました。「体力がついて、いつも学校のマラソン大会では2番でした。どうしても勝てない人がいたんですよ」。走るのが好きで強い選手を追いかけていたという小学校時代を過ごしました。

中学入学とともに東京へ引っ越すことに。中学では水泳部に入部したものの「水泳部は夏しか活動しておらず、先輩に声をかけられて陸上を始めることになりました」。陸上の中・長距離を始めた中田さんは都大会出場を果たしました。

中学時代の中田さん(ゼッケン659番、写真は本人提供)

都立西高校に進んでからも陸上部に。「近くに國學院久我山高校があって、いつも同じ井の頭公園のトラックで練習していました。練習に参加させてもらったり、強い選手たちから刺激を受けたりしていましたね」。その頃の仲間とは今でも一緒に走ることもあるそうです。

強豪・國學院久我山高校との練習の成果もあってか1500mで東京都高校総体で入賞し、南関東大会に出場。予選を通過して決勝に残ることができました。「雑誌で見たことのある選手たちと一緒に走れるのが楽しかったですね。ただ、1500m決勝の直前に台風のため急遽延期になったんですよ」。ウォーミングアップも終えてこれからスタートというところで、台風により順延となりました。

「台風の中なら大波乱もあるかもと思っていましたが、延期になってみんなコンディションも整い実力通りの結果でしたね(笑)」と当時を懐かしむように話されました。

3000mSCでインカレ入賞を目指して

高校卒業後は東京学芸大学へ。「元々は教員をやりたいと思っていました。親が教員をやっていたこともありました」と教育系の勉強をすることに。

競技の方では3000mSCに力を入れることになりました。「3000mSCは高校でも少しやっていました。大学で関東インカレ入賞を目標にしていましたが、5000m、10000mは箱根強豪校のエースたちが出場してきますし、正直難しいと感じていたんです。ただ3000mSCなら入賞するチャンスがあるのかなと感じていました」

3000mSCに向けた練習でよく取り入れたのは高尾山でのトレーニングでした。「上りの筋力や着地する時の筋力が鍛えられるので、高尾山でベースを作りましたね」。さらに「大学の土トラックで大障害を並べて20000m障害をやってましたね(笑)。当時、障害を越えながら1km3分45秒くらいでやっていましたよ。逆に200m障害にしてスプリントの中でハードルを跳ぶ練習もしていました。それでハードリングもうまくなりましたね」と3000mSCで関東インカレ入賞するためのトレーニングを重ねました。

4年生になって関東インカレ1部3000mSCで4位に。「8番に入れればと思っていたので嬉しかったですね」。さらに日本インカレでは7位に!「中学では都大会、高校では関東大会、大学で全国大会とステップアップできたのは良かったです。うまく成長できました」

ただ、順風満帆に4年間を過ごされたわけではなかったそうです。「実は、陸上部に在籍していた期間は短くて、1年生のときに1度退部しているんですよ。自分でトレーニングを組んでやりたいと当時は思っていました。そこから箱根駅伝予選会の人数が足りないからと戻ったこともありました。4年生になって、部に所属していないとインカレに出られないので再び陸上部に戻ってインカレに出場したんです。いったん陸上部をやめているので結果を出さないとかっこ悪いと思っていましたね。インカレでは同級生がすごく応援してくれたんです」

目標通り日本インカレ、関東インカレでも入賞することができた東京学芸大学時代(写真は本人提供)

4年生の箱根駅伝予選会では20km62分12秒で走破。「レースではいつも計算して走っていたので外すことはあまりなかったですね。レースの時に感情で動いてしまうのを抑えるんです。練習でこれくらいだからと自分の限界を作っておくんです。練習でやってきたことを冷静に判断して俯瞰的に見て走ると成功率は高いんですよ」。冷静な判断力と俯瞰する視点はその後の伴走経験にもつながっていそうです。

ニューイヤー駅伝、国体にも出場

大学卒業後はNTTデータに入社しました。当時、NTTグループは実業団チームがあり、中田さんは学生時代の実績を買われ、通常通りフルタイムでお仕事をしながら実業団登録もすることに。

社会人1年目にはニューイヤー駅伝に出場。5区を走りました。「昔から見ていたすごい陸上選手たちと準エース区間を走ることになりました。3000mSCをやっていたこともあって、上り基調で向かい風区間である5区を準エースじゃないのに走らせてもらったんですよ(笑)」。さすがに各チームのエース格が集まる5区では力の差があったそうですが、チーム関係者への感謝を口にされました。

社会人になってからは800mからフルマラソンまで幅広く出場していた中田さんですが、国体の山岳競技に東京都代表として出場。「今は競技も変更されていますが、当時は縦走競技といって18kgの重りを背負って登る競技でした。18kgであればリュックにどんなものを入れても良いので、リュックの作り方の技術、形状から勝負が始まっているんです」

3000mSCで鍛えた脚力、持ち前の洞察力や分析力を発揮し、7位に!「上位陣はほとんど自衛隊の方でした!次元が違いましたね(笑)。びっくりしました!」。それでも感情任せで走るのではなく、戦略を練り研究しながら実力を最大限に発揮することができました。

山岳競技だけではなく、2003年からはデュアスロンにも挑戦された中田さん。デュアスロンは「トライアスロンのスイムを抜いた2種目で行う競技」と定義されていて、世界大会では第1ラン(10km)、バイク(40km)、第2ラン(5km)で開催されているそうです(大会によって距離が異なることがあります)。このデュアスロンで中田さんはなんと8度も日本代表として世界選手権に出場!

3000mSCや山岳競技で鍛えた健脚を活かしてデュアスロンで8度の日本代表に!(写真は本人提供)

特に印象に残っているレースをうかがうと「世界選手権でイタリアのアレッサンドロ・ランブルスチーニ選手と並走した時ですね。ランブルスチーニ選手はアトランタオリンピックの3000mSCでアフリカ勢の一角を崩して銅メダルを獲得された選手です。3000mSCをしていた私にとっては憧れの存在で、感激しながら勝負を挑みましたね」。結果では負けてしまいましたが、今も良い思い出になっているそうです。

デュアスロン世界選手権で憧れのランブルスチーニ選手と並走する中田さん(写真は本人提供)

アテネパラ金メダリスト高橋勇市選手の伴走

デュアスロンへのチャレンジとともに2003年からブラインドランナーの伴走をすることに。雑誌「ランナーズ」を読んでいるとき伴走者を募集していたのを目にしたのがきっかけでした。「全力で走りたくても誰かがいないと走れない。自分のやってきた陸上競技が伴走で生かせるんじゃないかと思いましたね」

2004年のアテネパラリンピックでは高橋勇市選手の伴走を務めました。

アテネパラリンピックで高橋勇市選手の伴走をする中田さん(写真は本人提供)

アテネでマラソン金メダルを獲得した野口みずきさんのレース展開をイメージし、T11の部(全盲)の先頭をひた走り金メダルを目指して栄光のフィニッシュを目指す中、最後の最後でとある選手に抜かされました。

「当時のクラス分けでは全盲のクラス(T11)も弱視のクラス(T13)も同時にスタートでした。弱視の選手は伴走ありの選手と伴走なしの選手がいるんです。(全盲に近い弱視であるT12は当時T13で出場)当時マークしていた全盲(T11)の金メダル候補じゃない選手に抜かれて『伏兵か!?』と思いましたね。逆転されたと思って悔しい表情でフィニッシュしているんです」

アテネパラリンピックで高橋勇市選手と。金メダルの喜びをあとからかみしめました(写真は本人提供)

レース後、電光掲示板で確認すると高橋勇市選手が優勝でした。「最後に抜かれた選手は部門が違ったんですね!ホッとしました(笑)」と金メダルの喜びを後からかみしめることになりました。

「神がかっている」伴走の極意とは?

その後もパラリンピックや世界選手権で代表選手の伴走を務めている中田さん。

2012年ロンドンパラリンピックT11の5000mでは、15分55秒26のアジア新記録をマークして銅メダルを獲得した和田伸也選手の伴走を務めました。トラック競技の伴走はマラソンとはまた違った技術が必要になってくるそうです。「トラックの場合、一瞬の判断で勝負所を逃してしまうので位置どりが大切です。選手と伴走者が走るので2人分幅が必要になるんです。相手が1、2レーンだと抜く時に3、4レーンに近くなります。カーブで抜くと距離も長くなりますし、その蓄積が最後のスプリントにきいてくるんですよ」。技術の見せ所だと中田さんは言います。

そして、中田さんは選手の左側(内側)を走ります。「選手が内側の方がいい気もしますが、選手が縁石を踏むのが怖いんです。伴走者が内側の方が攻めていけます。他の選手を抜いたときに内側に入りやすいし、逆だと接触の恐れがありますね。ただ、前半から逃げていくなら選手が内側でもいいと思います。後ろから行って抜いていく時は逆の方がいいですね」

和田伸也選手の伴走を務める中田さん(写真提供:EKIDEN Newsさん)

「伴走者は道案内ではない」という中田さん。緻密な計算のもと、戦略を立てて選手がいかにベストなパフォーマンスを発揮できるか試行錯誤します。伴走者の役割もとても重要ですね。

中田さんの伴走はブラインドマラソン関係者の間でも「神がかっている」とよく話題になります。選手と足の動きがシンクロしている秘訣についてこんなことを教えていただきました。「競技をやってきた選手はみんなうまいですよ。集団走をするときに足音を揃える感じですね。みんなと同じリズムだと気持ち良いですよね。集団走で一緒にパンと足をつくタイミングがうまいと伴走にも向いていると思います」

もう1つ、中距離出身やスピードランナーは伴走で合わせるのがうまい傾向にあると言います。「ピッチ数のコントロール、スピードの切替え経験など、ピッチを変えてサッとペースの変化に合わせられるんですね。ずれずにすぐ調整できる点ですね」。伴走は考える要素がたくさんあって面白いという中田さん。

選手一人ひとりの個性に合わせた声かけや伴走技術が求められます(写真提供:EKIDEN Newsさん)

競技以外の面でもいろいろな学びがあるそうです。「視覚障がいのある方で、電車のホームから転落経験のある方が結構多いということに驚きました。私たちが思っている以上に声かけしなきゃなと思いますし、伴走していなかったらわからなかったことですね」。学校で講演活動もおこなっている中田さんは、こどもたちにも伝え続けています。

小学校で講演を行う中田さん。ご自身の経験を通じてこどもたちへ想いを伝えられています(写真は本人提供)

「こどもたちはそういう話を聞くと、後日さっそく実践してくれていると先生から連絡がありますね。そういった声や行動は嬉しいですし、世の中に少しでも良い影響になれば嬉しいですね」とご自身の経験を社会に還元していく活動にも積極的です。

高校以来23年間1500m3分台

伴走とともにご自身の競技でも現状打破し続けています。昨年10月で41歳となった中田さんですが、1500m3分56秒15で走り、なんと高校時代に初めて1500m3分台で走ってから実に23年もの間、3分台で走り続けています。

年齢を重ねてもなお自己記録更新を目標に進化し続けています(写真提供:EKIDEN Newsさん)

「学生時代にやっていた中距離で、40歳を超えてから自己記録を出したいんです!」と意欲的です。最近は「最大心拍数にはまっています。ここを考えてトレーニングしています」。データを取りながら科学的なアプローチも取り入れて学生時代の記録を超えるべく進化し続けています。

昨年のミドルディスタンスチャレンジでは川内優輝選手とも競り合いました(前から5番目が中田さん、写真提供:EKIDEN Newsさん)

「1500mは3分53秒36がベストなのですが、昨シーズンが3分56秒15。チャンスはあると思っています」。さらに800mでは1分56秒44と学生時代にマークした自己記録(1分56秒69)を19年ぶりに更新!「レースで感じた弱点に丁寧に対応し続けてきた結果、シーズン最終戦で19年前の記録を超えました!」と百戦錬磨の経験、豊富な知識に基づく分析、さらに準備と鍛錬を重ねて、学生時代の記録を0秒15ぬりかえたのでした!

また、最近では長男・陽太くんも走られていて「出るたびに自己ベストを更新して、うらやましいですし、負けてられないですね(笑)」

長男・陽太くんの走りも中田さんのモチベーションとなっています(写真提供:EKIDEN Newsさん)

息子さんの成長も活力となり、ご自身の競技も伴走もますます磨きがかかる中田崇志さん。さらなる活躍に注目ですね!

M高史の陸上まるかじり

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