法政大OB・黒田将由さん 突発性後天性無汗症を乗り越えての現在!
今回の「M高史の駅伝まるかじり」は黒田将由(まさよし)さんのお話です。玉野光南高校では3000mSCでインターハイ優勝。法政大学では駅伝やインカレでもご活躍。実業団・中国電力ではニューイヤー駅伝で3区を走って日本人トップの快走でチームの準優勝に貢献されました。昨年、長男・朝日さんが全国高校陸上3000mSCで2位に入るなど、息子さんも注目を浴びています。
サッカーから陸上の道へ
岡山県出身の黒田さん。小学校、中学校ではサッカー部。玉野光南高校に進んでからも最初はサッカー部に入ろうと思っていたそうです。「玉野光南高校に入ってサッカー部の練習を見に行ったら、中学の頃から有名な選手がいっぱい練習をしていて、自分には無理と思ったんです(笑)。走るのは苦手ではなかったので陸上部に入りました」というきっかけで陸上人生が始まりました。
陸上部に入って驚いたのは「毎日練習があるのを知らなかったんです(笑)」。本当にゼロからのスタートでした。初めて出場したのは国体県予選の3000m。「こんなにグルグルまわるのか」と驚きました。3000mを「未知の距離」と表現されました。
そんなスタートを切った陸上生活でしたが、高校1年生の秋には岡山県代表として国体少年B3000mに出場。「持ちタイムが後ろの方でしたが、たまたま予選を通過できたんですよ」。着順ではなくタイムで拾われての決勝進出でしたが「プラスで拾われるというルールすら知らなかったんです。決勝に残ったという話を聞いた時は『まだ走らなきゃいけないのか』と当時は思っていましたね(笑)」
迎えた少年B3000m決勝。当時、佐久長聖高校・佐藤清治さん、白石高校・前田和浩さん(現・九電工陸上競技部女子部コーチ)といったスター選手が揃い、かなりのハイペースでレースは進みました。
黒田さんは一番後ろからレースを進めます。あまりのハイペースに次々と選手が脱落する展開。「ペースもよくわからなくて落ちてくる選手を拾っていったら、いつの間にか3位になっていました!」。8分19秒55の大会新で優勝した佐藤清治さん、8分22秒72で2位の前田和浩さんに次いで、黒田さんは無欲の走りで8分26秒16、なんと3位に入りました!
高校1年生ながらインターハイ1500mで優勝していた超高校級・佐藤清治さん、前年の全日本中学陸上の優勝者で同世代を中学時代から牽引(のちに世界陸上に4度日本代表)してきた前田和浩さんに次ぐ3位の結果に「この試合がなければ、上のレベルまで陸上を続けていたかわからないですね」と大きなきっかけとなる試合でした。
3000mSCでインターハイ優勝
高校2年生になると5000mも14分21秒まで記録を伸ばし、実力を高めてきました。それでも「5000mでは一番になれない。3000mSCならいけるかもしれない。やるなら一番をとりたい!」という気持ちで3000mSCにも取り組み始めました。
高校3年生では3000mSCでインターハイ優勝を目標に掲げて競技に取り組みます。中国高校総体では5000mで優勝するも、狙っていた3000mSCでは2位。「悔しかったですね。インターハイでは3000mSC1本に絞ろうと思いました」
迎えたインターハイ。「インターハイの予選はいまふりかえっても人生で一番緊張したかもしれないですね。優勝候補だったというプレッシャーもあったかもしれません。大学や実業団に行ってからもあそこまで緊張したレースはないですね!」
無事に予選を通過。決勝では「逆に気持ちもリラックスしていました(笑)もう1番をとるしかないと思いましたね!」。狙い通りの全国制覇にも黒田さんは「たまたまです」と謙虚に話されました。高校1年生の時には決勝に残っても「もう1本走るの?」と言っていた黒田さん。2年後には「1番をとるしかない!」とメンタル的にも大きな成長があったそうです。
高校3年生の岡山県高校駅伝が終わってからのこと、黒田さんは部活に全く出なくなり練習もしなくなりました。「自分の気持ちの中では大学に入ってから頑張ろうと思っていました。車の免許を取りに行ったり、ケーキ屋さんでアルバイトもしていましたね(笑)」と競技から離れた高校生活を送りました。
法政大学に進学が決まっていた黒田さん。ですが、あまりに走らないので見かねたお父様が心配して「うちの子が走りたくないって言っているけど大丈夫でしょうか?」と当時、法政大学をご指導されていた成田道彦監督(現・総監督)に相談。すると成田監督は「大丈夫です! 大学に入ってからしっかり面倒見るので、今は好きにさせてください」とお返事されたとか。「この話はあとから聞いたのですが、今思えば身勝手でしたね(笑)。それでも自由にさせていただきましたし、感謝しています」。成田監督の懐の深さが伝わってくるエピソードですね。
法政大学へ!徳本一善さんとの襷リレー
数ヵ月間競技から離れて法政大学へ入学。ところが黒田さんはブランクと感じていませんでした。「ブランクというよりもフレッシュな状態でしたね(笑)」。なんというポジティブワード変換でしょう(笑)! 実際、練習不足というよりも疲労が抜けたフレッシュな状態で大学生活をスタートできたそうです。
当時の法政大学の印象は「練習は厳しいですが、自由なチームでしたね。楽しくのびのびできる環境を作ってもらえていました」
黒田さんの2つ年上には徳本一善さん(現・駿河台大学駅伝部監督)が大エースとして活躍されていました。
ちなみに徳本さんに当時の黒田さんの印象を伺ったところ「いわゆる“天才派“の選手でしたね。センスだけで上りつめたような所もあり、練習は好きな方ではなかったので、一緒に練習をやるようにしてましたね。ここぞという時の集中力は高く、試合では外さない印象がありました」と黒田さんの才能、レースへの集中力に早くから注目されていました。
1年生で迎えた箱根駅伝はスタートの1区を任されました。「2区の徳本さんに良い位置で渡す」という目標を立てた黒田さんですが「タイム的には10番手くらいだったので、気負わずにのびのび走りました」とチャレンジャーのつもりで走り、好位置をキープ。ラストは先頭に出て仕掛ける走りも見せ、先頭と2秒差の区間3位の好走でした。
法政大学は2区の徳本さんで首位に。その後も3区、4区と首位を守って、先頭で5区・大村一さんに襷がつながりました。中継車が揺れるほどの強風の中、大村さんは後方から追い上げてきた順天堂大学・奥田真一郎さん、中央大学・藤原正和さんから逃げに逃げます。
「法政大学の選手たちは、自分のレースが終わったら寮に帰っていたんですよ。まさか往路優勝争いすると思っていなかったんです。ところが5区の中盤を過ぎてもトップをキープしていて『往路優勝しても誰も芦ノ湖にいない!』とザワザワしましたね(笑)」
往路優勝こそならなかったものの往路3位、復路も粘りの走りで総合4位で大手町のフィニッシュに戻ってきました。「みんながみんな普段の力以上を出せた結果だと思います」と1年目の箱根を振りかえられました。
2年生の箱根では1区区間賞を狙っていた黒田さん。12月1日の日体大長距離競技会10000mでは28分37秒88の自己ベストを更新し、勢いに乗るはずでしたが「今年こそ1区で1番をとりたいと思っていましたが、なかなかうまくいかなかったですね。記録会でタイムを出してから調子も上がってこなかったです」とピーキングの難しさも感じました。
迎えた箱根駅伝では前年に続いて1区を走り区間6位。2区で大黒柱・徳本さんにアクシデントがあり、チームはまさかの途中棄権となりました。
故障に悩むも間に合った最後の箱根
大学3年生になって日本インカレ10000m3位と個人で結果も残しましたが、箱根駅伝は欠場となりました。この年は箱根予選会からのスタート。故障によりピークを箱根に持っていくことができなかったそうです。「選手層も薄かったですし、難しかったですね」
4年生になっても故障に悩まされましたが、12月になって足が治ってギリギリ箱根に間に合いました。「3年生で走れなかったのでどうしても走りたいと思っていました。希望としては1区でしたが、そこまで戻ってなかったですね」。黒田さんは3区を任されました。
「(9位で)襷をもらった時点で前が全く見えていなくて、大学生になってから駅伝で1人で走ることがなかったんです。たまたますぐ後ろから(5秒後にスタートした)神奈川大学の下里(和義)くんが追いついてきて、並走させてもらいました。途中で離されてしまったのですが、走れたのは下里くんのおかげですね!」神大の下里さんが区間賞、黒田さんは区間4位と故障明けながら順位を9位から6位に3つ上げる好走でした。
「楽しく競技ができた4年間」と語られた黒田さん。恩師・成田監督について「成田監督が話されたことは今でも覚えています。成田監督のことをみんな尊敬していましたね。偉大な選手だったのにご自身の過去の話を一度もしたことない謙虚な方でした。優しい人柄で親身になってくださいました」と魅力を語られました。
覚悟を持って中国電力へ
大学卒業後は実業団・中国電力へ。当時、油谷繁さん、尾方剛さん、佐藤敦之さんと日本男子マラソン界を背負うトップアスリートが集まるチームでした。「法政大学の良さは『自由に楽しく』でしたが、実業団に行くからには(競技ができる最後くらいは)覚悟を持って本気で陸上に取り組もうと思いました」
日本最高峰のチームだけあって「練習の質も量もついていくのが精一杯……というか、ついていけなかったですね(笑)。先輩方は競技面だけでなく私生活からストイックでした」
強く印象に残っているのが2006年のニューイヤー駅伝です。2区(22.0km)佐藤敦之さん。3区(11.8km)黒田さん。4区(10.5km)尾方剛さん、5区(15.9km)油谷繁さんとマラソンを代表する3人の先輩に挟まれる形での襷リレー!
当時は外国人選手が2区と5区以外に出場することができ、3区は外国人選手が集結しハイレベルなスピードが求められる区間でした。「コニカミノルタさんは大学の先輩でもある坪田(智夫)さん(現・法政大学駅伝監督)が同じ3区でした。自分のところで落とすわけにはいかないと思って走りました」。日本人トップ(区間11位)で坪田さんにも先着する結果に「たまたまですけど(笑)初めて勝つことができましたね」と謙遜されました。
このニューイヤー駅伝でチームも2位に。ただ、優勝を狙っていたチームにとっては悔しい結果となりました。「このメンバーで、この走りをして、なんで優勝できないのか、どうやったら優勝できるのかって思いましたね」。目指していたのはあくまでも頂点でした。
突発性後天性無汗症を発症
その後、黒田さんは原因不明の病気に悩まされます。「足を痛めていて復帰した練習のあと、すごくしんどかったんです。背中に手を当てたら汗をかいていなくてサラサラで、腕を見たらむくんでいました。これはおかしいと感じました」
すぐに広島大学病院へ入院することに。診断の結果は汗が出ない病気「突発性後天性無汗症」でした。「全身から汗が出ないので、熱中症になりやすいんですよ。練習もできないですし、夏場になると私生活だけでもしんどかったです」。原因もわからず、周りの方にも心配されました。
「結婚もしていましたし、自分としても一番走れていた時期になってしまったので、本当に治るのか一番心配していました。陸上を高校から始めて毎年記録も伸びていて、他の選手と比べて練習量も多くなかった中で順調にきて、でもそんなにうまくはいかないのかなぁと、陸上をなめていちゃダメだなぁと思いましたね」
リハビリ、治療の日々。ステロイド治療、点滴、飲み薬といった選択肢がありましたが「ステロイドを使い続けてまで競技を続けるのかと考えたりもしました。引退後、体に残ったり副作用の可能性があったり、その後の人生を考えると悩みましたね」
その後、治療により徐々に治ってきました。「ある程度汗が出るようになって以前のように少し走れるようになってきました」。2009年のニューイヤー駅伝にも復帰しました。ところが「以前の自分の体と全く違ったんです。レースでも結果が出ないですし。昔の走りができないもどかしさがありました。試練だと思って走っていましたが、今思うとつらかったですね」
2010年に競技を引退します。「周りの方に恵まれていた競技人生でした。周りの方がいたからここまで続けてこれたので感謝ですね。陸上をやっていて良かったのは人との繋がりです。周りの方と繋がれたことが財産ですね」。競技引退後は社業に専念し、新たなスタートを切られました。
長男・黒田朝日さんの活躍
黒田さんの長男・朝日さんは現在玉野光南高校の2年生。昨年、インターハイは中止となりましたが代わりに開催された全国高校陸上に出場し、3000mSCで8分57秒33の記録で2位。3年生になる今年はさらに期待が高まります。
朝日さんについて「小学校ではサッカー、中学ではバスケットボールをしていましたね。小さい頃から走らせようとかは全くなかったです。陸上を始めたのは高校に入ってからですよ」。親子揃っての玉野光南高校。高校から陸上を始めたのも黒田さんと同じ。しかも3000mSCで活躍というところまで親子そっくりですね!
「のびのびと競技をしていますね。全国大会でも周りの選手を気にすることなく自分の走りをしていました。僕よりもガツガツしていなくてマイペースですね(笑)」
競技面や試合の結果についても「『良かったね』と言うくらいであまり言い過ぎないようにしています」。本人の選択に対して特に何も言わないそうです。
将来に関しては「自分がやりたければ、箱根駅伝やニューイヤー駅伝などを走ってもらえればと思いますが、自分の思いで頑張ってもらいたいですね。自分の決めた道をしっかりと、そして周りの方への感謝を忘れずに進んでほしいですね」。お子さんにも全く強要しないのに他のスポーツから陸上に転向し、さらに3000mSCを選ぶとはもう運命ですね(笑)。ちなみに、次男の然(ぜん)さん(桑田中学3年)も3000m8分56秒54で走っており、将来が楽しみですね!
最後に黒田さんから読者の皆様へのメッセージもいただきました。
「当たり前のことが当たり前じゃなくなる日が来ることもあると思います。コロナのこともありますが、常に冷静な判断、柔軟な変化への対応ができる精神力も大事なんじゃないかなと感じています」
周りの方に感謝しながら、病気を克服して、常に現状打破してきた黒田将由さんの言葉は、元気や勇気を乗せた追い風となって多くの方の心に届くのではないでしょうか!