陸上・駅伝

連載:M高史の陸上まるかじり

神奈川大で箱根駅伝出場の芝大輔さん パラスポーツに携わり描く未来図!

神奈川大学OBの芝大輔さん。現在は和歌山県こども・女性・障害者相談センターに勤務しながら和歌山パラアスリートクラブの代表をされています(写真はすべて本人提供)

今回の「M高史の駅伝まるかじり」は芝大輔さん(和歌山県こども・女性・障害者相談センター)に取材しました。神奈川大学で箱根駅伝に出場。その後、高校の講師、特別支援学校の教員生活を経て、現在は和歌山パラアスリートクラブを設立し、パラスポーツの支援活動や指導を行なっています。

釣りが大好きだった陸上部員

和歌山県出身の芝大輔さん。「小学校の時は身長が低くて137cmくらいでした。水泳もサッカーもしていましたが、水泳は浮かないし進まない、サッカーは非力でした(笑)」

長距離走は学年の中でも比較的速かったこともあり、中学1年からは陸上部に。中学時代のお話を伺ったところ「陸上はやっていましたが、釣りをやっていたことの方が思い出ですね。釣りが好きで陸上部の仲間とバス釣りとか行ってましたね(笑)」。なんと陸上の思い出よりも釣りの思い出の方が色濃く印象に残っているそうです。芝さんは海も山も近く、自然に囲まれた地域で育ちました。

那賀高校へ進んでも陸上部に。「長距離だけでは駅伝に出られないような学校でした。顧問の先生もいらっしゃいましたが、練習は比較的自分たちで考えながらやっていましたね」

那賀高校時代の芝さん。3000mSCで近畿高校総体に出場しました

決して強豪校ではない環境で、5000m15分11秒。「同級生の入學遼治(にゅうがくりょうじ)君も14分50秒くらいで走っていて、一緒に頑張っていました」。高校時代の実績は、3000mSCで和歌山県高校総体優勝。近畿高校総体に駒を進めますが、近畿大会は発熱の影響もあり予選落ちに終わりました。

高校3年間の思い出を伺うと「釣りのことしか思い出せないです(笑)」と冗談っぽく笑われましたが、強豪校ではない中、自分たちで工夫しながら陸上に取り組み、また好きな釣りも楽しんだ高校3年間でした!

憧れの神奈川大学へ!

高校卒業後は神奈川大学へ。神奈川大学といえば神奈川県横浜市にキャンパスがありますが「父が横浜DeNAベイスターズの大ファンなんです!」。大洋ホエールズの大ファンだったというお父様が名付けた大輔さんには「大」、弟の洋輔さんには「洋」が入っているほど、筋金入りの大洋ホエールズ時代からの横浜DeNAベイスターズファン!「神奈川大学は横浜にあるし、ユニフォームも青いし(プラウドブルー)似ているので、嬉しかったですね!」

ただ、張り切りすぎてしまい、疲労骨折した状態で入学することに。それでも「神奈川大学といえばコツコツやるので有名な大学でした。いつか追いつきたいという思いを持ちながら、ポイント練習以外は自分のペースでコツコツやっていましたね」

神大時代の芝さん(右列の後ろから2番目)。写真は合宿の距離走

芝さんの1学年上には下里和義さん(現・プレス工業陸上競技部監督)、島田健一郎さん(現・ユニクロ女子陸上競技部コーチ)、吉村尚悟さんといった駅伝やインカレでも活躍している先輩たちが在籍していました。ちなみに、設楽悠太選手ものまねでおなじみお笑い芸人・ポップライン萩原さんも芝さんの1つ上の世代です!

強い先輩に囲まれていたものの、芝さんは冷静に分析されていました。「スピードはないけど長い距離で活躍している先輩もいらっしゃったので、身近な目標となりましたね」。自身の特徴、実力を俯瞰的に判断し「4年間かけて力をつけていく」作戦を立てました。

コツコツ継続、4年目で箱根路を駆ける

その言葉通り、コツコツと練習を継続し地道に実力を高めてきた芝さんは、4年生の秋になると駅伝メンバー入りが見えてきました。10月の札幌マラソン・ハーフマラソンの部で上位入賞し、11月の全日本大学駅伝ではエントリーメンバー(補欠)に入りました。

そして、4年生最後の箱根駅伝。ついにメンバー入り! 4区を走ることになりました。「4年目、選ばれるまでは長かったですね。それでも特別な思いがありました」 

迎えた最初で最後の箱根駅伝では4区で区間9位の走り。「最後、小田原中継所に向かって少し上っているんですけど、キツかったですね」と当時の走りを懐かしそうに振り返られました。

4年生で箱根路デビュー。区間9位の走りでした

恩師・大後栄治監督については「コツコツタイプの選手にも優しく声をかけてくださいましたね。若者感覚というか感覚的な若さを持っている監督ですね!」。人柄、魅力についても教えていただきました。

卒業後は教員、指導の道へ

大学3年生までに卒業に必要な単位をすでに取り終えていた芝さん。就職活動していく中で「教える仕事につきたい」と思ったのは4年生の時でした。「教師、指導者の道へ行きたいと思ったんですよね。大学は経済学部でしたが、やるなら保健体育の教員になりたいと思ったんです」

大学卒業後は和歌山大学大学院で勉強、研究をしながら、科目等履修で保健体育の教員免許も取得しました。またご縁があって、大学院で学びながら関西学院大学のコーチも務められました。「大学院2年目からコーチ業もさせていただいたので、宝塚に住んで、朝練、本練、昼間は勉強するといった生活を3年していましたね(笑)」と多忙な日々の中にも充実さを感じられていました。

教員免許取得後、兵庫県の市立明石商業高校で講師に。保健体育を教えながら陸上部の顧問も務めました。「明石商業高校の山村博之先生は棒高跳の井村俊雄選手を育てた先生でした。とても勉強になりましたね!」。名監督のもとで指導法を直で学ぶ経験となりました。

パラスポーツの世界へ

その後、地元・和歌山県で特別支援学校の教員になることに。最初の赴任校は県立紀北支援学校。「教頭先生をされていた方が、実は高校時代に地理を教えてくれた先生でした。教員免許取得を勧めてくださった方でもありました。先生は特別支援学校について『教育の原点』とお話されていましたね」

「特別支援学校は、生活、学習だけじゃなく全てを教えていく場所といった感じですね。こどものことを思っている熱心な先生が多いですね」と教えていただきました。

その後は、県立たちばな支援学校、和歌山さくら支援学校と異動。「県立たちばな支援学校は海沿いにあってのんびりしている雰囲気でしたし、和歌山さくら支援学校は和歌山北高校と併設していて行事などで高校と一緒になることもありました」。学校、生徒さんによっても全然違うので毎回新たな発見があったそうです。

国体と一緒に開催される全国障害者スポーツ大会ですが、和歌山県では「2年間出場すると翌年は選ばれない」といったルールがあるそうです。自治体によってルールは異なり、出場は1回きりという自治体もあるそうです。そのため「一番速い選手が出場できるとは限らないんですよ。前年に出場した選手の次の目標をどうしようかと考えていましたね」。選手たちのモチベーションをどのように保っていくか考えることに。

「知的障がい者の方だけの日本選手権があるので、選手権の方を目指すことになりました。最初に行ったのは指導というよりも環境作りですね。競技をやりたいけどやるところがなかったので」。芝さんは陸上競技の審判経験もあり「審判や都道府県対抗駅伝で和歌山県のコーチをしていたので、会場を借りる時にそのつながりが役立ちました。それに、和歌山北高校の先生方、特に陸上競技部の吉田先生には障がい者スポーツにご理解をいただき、とても助かっています」とご縁に感謝されていました。

芝さんの右隣が高校の同級生・入學遼治さん。入學先生の教え子も和歌山パラアスリートクラブに在籍しています

「和歌山パラアスリートクラブ」を設立し、クラブチームとして大会に出たり活動したりしていくうちに「一緒に走りたい」という担任した児童やその兄弟、小学生も入って、ご縁がつながっています。

ご縁といえば、前述の高校の同級生・入學遼治さん(現・和歌山大学教育学部附属特別支援学校)。「ここ数年、都道府県駅伝のコーチとして一緒に和歌山県チームの指導に携わっていました。入學先生の教え子も和歌山パラアスリートクラブに数人います」。高校時代に襷をつないだ同級生と、現在は同じ和歌山県のパラスポーツの世界でつながっているんですね!

パラスポーツの未来へ

支援学校で計9年間の教員生活ののち、今年度から和歌山県に出向となりました。現在は和歌山県こども・女性・障害者相談センター(障害者支援課・社会参加推進係)に勤めています。

「社会参加推進係は手帳の交付等を行う部署ですが、私は障がい者スポーツを担当しています。和歌山県には今まで障がい者スポーツのクラブチームがほとんどなくて、特別支援学校の卒業生が好きなスポーツを選択して日常的に運動できる環境が少ないイメージでした」。9年間の支援学校教員生活もあって知的障がいスポーツには関わってきた芝さんでしたが「身体障がいのある方のスポーツ、車椅子のスポーツなど今まで全く関わってこなかったので新たに勉強しています」と勉強の日々だといいます。

車いすバスケチームで実際に競技体験をする芝さん

今年度はコロナ禍の影響で全国大会の派遣が中止になってしまいました。「大会や地域での活動を楽しみにしていた選手たちのメンタルのケアも必要ですね」と選手の心情にも思いをめぐらせます。

今後については「指導している選手が世界大会やパラリンピックに行けたら嬉しいですね! 障がいがあってもスポーツをされている方はたくさんおられるので、選手も支援してくれる方も支えてくれるボランティアさんも一緒に楽しむ大会、一緒に楽しむ機会が増えていけたらいいですね!」と笑顔でお話されました。

箱根路を駆け抜け、今はパラスポーツを支える立場となった芝さんは、新たなフィールドで今日も現状打破されています!

M高史の陸上まるかじり

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