大学陸上・駅伝

連載:私の4years.

サッカー少年が陸上に導かれて 元神奈川大陸上部・ポップライン萩原(もしか設楽)1

高校3年、秋田県八郎潟駅伝競走大会にて。左が筆者(写真はすべて本人提供)

連載「私の4years.」の10シリーズ目は、陸上長距離選手の設楽悠太のそっくりさん「もしか設楽」として活躍中の芸人、ポップライン萩原さん(38)です。1回目は秋田に生まれ、サッカー少年だった萩原さんが陸上競技と出会い、神奈川大にあこがれて入学するまでの話です。

中学にはサッカー部がない!

「野球部入るの? 陸上部の方が楽しいよ?」

中学校に入ってすぐ入部届を書く僕に、隣の席のクラスメイトがかけてきた言葉。彼のひとことがなければ、陸上競技はやってなかったかもしれません……。

僕は小学校の6年間、地域のクラブチームに所属し、市の代表に選出されるほどサッカーに打ち込んでいました。1992年、小学5年生のときにJリーグが発足。将来の夢はもちろん「Jリーガー」でした。サッカー以外のことはほとんど考えてませんでした。しかし、中学校に上がったときに転機が訪れます。

小学生のころはサッカーに夢中。陸上なんて考えたこともありませんでした

「サッカー部がない……」

親の転勤で引っ越したのですが、中学でも当たり前のようにサッカーをしていくと思っていたので、このときほかのスポーツのことを初めて考えました。

「高校でサッカーをやるとしたら、体力はつけておいた方がいいな……」
「サッカーは球技だから、やるなら球技だな……」
「走り回って体力がつく球技……。うん、野球部だな」

こんな単純な思考回路で、野球部を選ぼうとしていました(笑)。

そんなとき、隣の席の同級生が声をかけてくれました。「ここは陸上部が強いから、入ったら楽しいと思うよ。陸上部に一緒に入ろうよ!」。彼は地域では有名な俊足の少年でした。友だちがいない僕に声をかけてくれたのがうれしく、そしてよくよく考えたら、サッカーを高校でやるなら持久力をつけておいた方がいいなとも思い、陸上部に入ることにしました。

この学校こそ、高橋敏治監督(現・県立秋田北鷹=ほくよう=高校陸上部監督)が率いていた秋田県合川(あいかわ)町立合川中学校。全国中学駅伝の常連校でした。

爽快な成功体験で陸上にのめり込む

もともと体を動かすのが大好きだった僕は、初めて取り組んだ陸上競技がおもしろく、がむしゃらに練習に打ち込みました。そして春季大会の1500mの選手に選ばれ、いきなり4位で入賞しました。

中1の春季大会でいきなり4位。うれしくてしょうがなかったです(右から2番目が筆者)

「練習しただけいい結果が出る!!」

この成功体験がものすごく爽快だったのを、いまでもよく覚えてます。

その秋の駅伝大会でも、合川中学校は秋田県で優勝。東北大会、そして全国大会へ。僕はメンバーではなかったんですが、県トップクラスの先輩たちと一緒に走れるのがすごく楽しく、キラキラした後ろ姿が誇らしくて、「自分も速くなりたい!」という欲求がどんどん強くなっていき、長距離にのめり込んでいきました。いま考えると、陸上競技に導かれていたのかなとも思います。

中2の県大会1500m決勝で力走(右から2番目が筆者)

高2の夏に開花、県内の注目選手に

高校は秋田経済法科大学附属高校(現・明桜高)に進みました。かつては全国高校駅伝で3位に入ったこともある県内屈指の強豪校です。中学の恩師である高橋監督の母校ということもあり、合川中の多くの先輩たちが進学していました。

高校は寮生活でした。中学時代からあこがれていた先輩たちと一つ屋根の下で暮らしての競技生活、秋田では常に注目される高校への進学、そして親元を離れた開放感もあり、まさにバラ色の高校生活が始まりました。ただ、朝練だけはどうしても苦手で、数えきれないほど寝坊しました(笑)。

競技に目を向けると、高1のときは(公認記録ではありませんが)1500mを4分20秒。3000mは9分20秒、5000mは16分40秒。速い方の部類の選手ではなく、いたって平凡な選手でした。

そんな僕が、いわゆる開花したのは高2の夏でした。その年の秋田県高校総体にも出られない程度の選手だったのですが、夏前の記録会で5000mを15分10秒で走りました。高1から悩まされていた貧血が治り、自己ベストを1分30秒近く更新。その年の県高校総体の5000mの優勝タイムと同じくらいの記録を出したことで、一躍県内の注目選手になりました。

生涯ベストレースの一つ、男鹿駅伝! いまでも思い出します(黄色のユニフォームが筆者)

そして佐久長聖、洛南、報徳学園、大牟田など、全国各地から強豪校が集まる男鹿駅伝でAチームの1区(10km)に大抜擢されます。県勢トップの30分33秒で区間6位。いま振り返っても、陸上生活のベストレースの一つです。

この時期の走りが評価され、この年から県代表対抗の大会に出られるようになります。当時開催されていた、青森から東京まで約1週間をかけて襷(たすき)をつなぐ東日本縦断駅伝(通称:青東駅伝)や都道府県対抗男子駅伝。秋田県代表のユニフォームを身に着けて走ることで、全国レベルの高さを肌で感じ、このころから強く箱根駅伝を意識するようになります。

秋田県代表の団結式。県を代表して走れるのはとても光栄でした

どうしても消えない神奈川大学へのあこがれ

高3の東北高校総体を終え、進学先を真剣に考える時期になりました。僕が高1のときの箱根駅伝で、神奈川大学が2連覇を達成しました。5区を走った勝間信弥さん(神奈川大~佐川急便)が駒澤大学をかわして往路優勝を果たした姿が強烈なインパクトとなり、「神奈川大学に行きたい」という思いがずっと胸の中にありました。ただ、全国から箱根駅伝を目指して選手が集まる関東の大学です。強豪校で夢をつかめるのか……。そもそも入部できるのか……。

・箱根駅伝には出たことがないけど、強化が始まっている大学で出場を目指す
・箱根駅伝常連校で、一番下からはい上がって出場を目指す

県内ではそこそこ通用していても、全国レベルになるとまったく歯が立たない。そのレベルの高校生が誰しも1度は考えるんじゃないかと思うこの2択。ありがたいことに、前者では平成国際大学(この翌年に箱根駅伝初出場)、後者では山梨学院大学が選択肢としてありました。

高3の秋田県総体。どうしても神奈川大学への思いをあきらめられません

ただ、神奈川大学へのあこがれはなくなりませんでした。2連覇を果たしたプラウドブルーのユニフォームの爽やか過ぎるインパクト、入学できたとしたら4年生に勝間信弥さんが在籍しているという喜び。そして何より、その当時言われていた、「15分台の選手が地道にコツコツ努力して、4年生で箱根を走る」という「神大(じんだい)雑草魂」。超高校級が集まったチームではなく、無名の高校時代を過ごした選手がコツコツ努力して勝ち取った優勝、そして2連覇という事実は、インターハイ出場も逃している僕にとっては、箱根駅伝への確かな道として見えていました。

ど緊張の中、大後監督との初対面

お気づきかとは思いますが、スカウトが来て、声をかけてもらって推薦入学を勝ち取るといった、よくあるケースではなかったのです。高校時代の恩師、吉野勇一監督には「厳しい」と言われているのに何度も頭を下げ、神大の情報を集めていただき、さらに大後栄治監督にあいさつさせて頂ける状況を作ってほしいと懇願しました。

その当時の神大の入部最低条件は「5000m15分10秒」「地方大会出場」。僕はギリギリでクリアしていました。そして、青森県東北町で夏合宿をしている神大の大後監督にコンタクトを取ることができ、練習参加にまでこぎつけました。

ど緊張の中、あいさつをさせてもらい、思いの丈をぶつけ、練習参加で走りを見てもらいました。「足は14分台、上半身は中学生」という恥ずかしくもありがたい言葉をいただき、ど緊張のうちに無名の高校生ランナーは大後監督との初対面を終えました。緊張しすぎて断片的にしか覚えてないんですが、断片的には、いまでも鮮明に思い出せます。

その後も、吉野監督を通じてコンタクトを取らせていただくこと数カ月。下里、島田、吉村、西、藤本、中村、佐藤、吉仲、池水、菅野、比企……ときて、恐らく最後の1枠だったであろう12番目の新入生として、神大入学をつかむことになったのです。

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