大学陸上・駅伝

連載:私の4years.

距離を踏む神大の洗礼 元神奈川大陸上部・ポップライン萩原(もしか設楽)2

3年次、日本インカレに出場した同期を囲んで。後列真ん中が筆者(写真はすべて本人提供)

連載「私の4years.」の10シリーズ目は、陸上長距離選手の設楽悠太のそっくりさん「もしか設楽」としても活躍中の芸人、ポップライン萩原さん(38)です。2回目は、神奈川大に入学した萩原さんの同期との出会い、そしてチーム内競争の厳しさについてです。

当時から「異常に」仲のよかった同期たち

たまたま仲よくなった隣の席の⼦に誘われて入った中学校の陸上部。
たまたまその陸上部が全国大会常連校。
そして高橋監督、吉野監督という名将との出会い。
奇跡的な出会いを繰り返しながら始まった陸上人生。
晴れて神奈川大学に入学した僕に、さらに奇跡の出会いが訪れます。

大学卒業後も「1月3日の箱根駅伝後は集まって飲む」というのが恒例行事になっているほど、同期とはいまだに深くつながっています。

2004年に卒業しましたので、かれこれ17年ですか。在学中から「異常に仲がいい」と言われてました。ドラゴンボール、スラムダンク、ワンピース……。アニメ作品の登場キャラクターのごとく、個性的でキャラがかぶっていない12人がそろっていました。

もちろん最初から仲がよかったわけではなく、学年ミーティングを数えきれないほど開いて、「箱根駅伝」という最大目標への話や、「練習消化率や態度」の善し悪しについてや、「私生活向上」のための意見を出し合ってきました。よかった点はほめ合い、悪かった点はオブラートに包むことなくハッキリと言い合う……。とまぁ、これは箱根駅伝という大舞台に向かっていく中では、どこの大学でもどこの学年でもやっている、至って当たり前の行動かと思います。

僕らがしっかりと深くつながっていった要因は「まず友だちになれた」ということじゃないかなと、いま振り返ると思います。

とにかく仲のいい同期、2年の夏合宿にて。このときは丸刈りでした(真ん中が筆者)

お正月の風物詩であり、一大イベントである箱根駅伝という大舞台。観戦する側ではなく、入学して当事者になった瞬間から、とんでもない所に身を置いてしまったんだ、という見えないプレッシャーを常に受けてきました。

もちろん、仲よしこよしのお友だち感覚では到底乗り越えられないものであり、先輩後輩もありますが、同期はそれ以上に「仲間であり最大のライバル」です。

全国の高校生たちが誰しも息巻いて入学するのと同じで、僕らもそんな感じで入ったとは思うのですが……。

うまいこと「箱根駅伝」という最大目標の話をする前に趣味趣向の話をし、うまいこと「練習消化率や態度」の話をする前に夜の寮飯の話で盛り上がり、うまいこと「私生活向上」の話をする前につきあってる彼女の話を延々としたりと、フルマラソンに出場する市民ランナーがいきなりスピード練習をするのではなく、軽いジョギングから土台を作るように、自然と横のつながりの土台を作り上げられたのだと思います。そして12人のキャラクターがかぶっていなかったことも功を奏し、そのスピードは早く、そして強かったのかなと。

なので、友だちになれたというより、「まず友だちになれちゃった」という方がしっくりくるかもしれません(笑)。

グラウンドまで往復18km、走って通う

同期への止まらない愛情の話はこのくらいに、競技の方はというと……。

神奈川大陸上部の寮は横浜キャンパス(最寄は東急東横線白楽駅)に隣接して建てられています。横浜キャンパスには陸上のトラックがなかったため、ポイント練習の日は神奈川大附属中高等学校(最寄駅はJR横浜線中山駅)のトラックまで通っていました。片道約9km、電車だと約30〜40分の道のり。これの移動手段がjogでした(笑)。

全部の練習で往復jogだったわけではないのですが、例えば12000mペース走のポイント練習だとして、まずアップで9km、12000mペース走をやり、ダウンで9km。一回のポイント練習だけでトータル30kmの走行距離。当時「距離を踏む神大」と言われていたのは入学する前から知ってはいましたが、最初の練習からバリバリの筋肉痛になり、高校時代には夏合宿でしか経験したことがないぐらいの練習が日常でした。

3年の夏合宿。同期は最大の仲間でありライバル、の前に友達でした

「マジかよ。これ、ついていけるのかな?」。かなり面食らったのを、いまでも覚えています。

そして、必死に食らい付きながら練習をなんとかこなす状態ではありましたが、慣れるもので、数か月もしないうちに往復jogをすることは当たり前になっていきました。

選抜メンバーから漏れて気づく「戦い」の意味

距離を踏む練習環境に若干慣れてきた夏。8〜9月までの約1カ月、青森の東北町と北海道の遠軽町で張る夏合宿の時期を迎えました。

まずは、ほぼ全員が参加できる1〜2週間の青森合宿からスタート。そして北海道へ移動して1〜2週間。青森合宿が終わる直前で気付くことになるのですが、当たり前のように連れて行ってもらえると思っていた北海道合宿には、選ばれたメンバーしか行けませんでした。

そしてその年、僕は残念ながら北海道合宿に参加できませんでした。箱根駅伝出場をかけたチーム内の戦いが始まっていたのにも、そこで初めて気づきます。

入学して4カ月、高校生気分がようやく抜け切ったくらいのタイミング。寮生活や練習をただただ必死にこなしていた僕は、夏合宿でふるいにかけられたことでようやく視界が広がりました。先輩や、1年生から北海道合宿に行った同期たちの行動を振り返り、附属中高等学校のトラック往復のjogスピード、日々の練習の前後の行動、私生活……。8月の合宿だけではなく、日々、箱根に向けた戦いが始まっていました。

結局北海道合宿に参加できたのは、4年生になってからでした

当時、言葉にできない不安感と、それを上回るワクワク感というか、期待感に包まれた感情をいまも思い出します。

そうは言うものの、青森合宿の手応えは上々で、練習消化率も90%近かったと思います。1年生から北海道合宿に選抜された数人を除けば、同期の中でもかなり走れていて、元々の楽観主義な性格、そして青森合宿最中は何も気付いてなかったのも相まって「俺、1年から箱根走れるかも」と考えたりもしました(笑)。

記録会の申請をやって芽生えた「確固たる自信」

4月から8月までの間、1度も記録会に出場していない状況で夏合宿を終えました。自分がいま、どのくらいのタイムで走れるようになっているか分からないのですが、確実に強くなっている手応えはつかんでいた9月、ようやく大学初の日体大記録会5000mへの出場機会が訪れます。

日体大記録会に出場するにあたり、まずは自分自身で目標タイムを記入し、マネージャーに提出します。マネージャーとタイムを確認し合って申請する、という流れなのです。

当時でいうと、客観的な目線で選手の練習を常に見てくれていた4年生の松尾主務に提出し「この目標タイムは速すぎる、遅すぎる」なんてやりとりをして、自分の力を出し切れそうな組に振り分けてもらう作業をしていました。

初の記録会出場。初の申請書記入。当時の自分の公認記録は15分10 秒……。
「とりあえず14分台出したいな」
「でも15 分ちょうどぐらいでもいいかもな」
「いやいや夏合宿あんだけ走れたから14分50秒申請だな」
「いやでも速すぎるって、松尾さんに怒られないかな」

メチャクチャ悩んだ末、恐る恐る14分50秒で申請。
「ばーかやろ」と、ひとこと言いながら申請タイムを書き換える松尾主務。

「やっぱり速すぎる申請で怒られたー」と思いながら申請タイムを見ると、そこには「14分30秒」の文字。

「萩原たぶんこのくらいだと思うからコレで、頑張れよ〜。はい、次は誰〜?」

2連覇を経験した4年生。その中でも、何人もの選手を客観的に見てきたであろう4年生主務の当たり前の感じの軽い雰囲気が、とてもうれしかったです。強くなった感覚が間違いではなかったと裏付けをしてくれたような気分とともに、完全に自信を持てた瞬間でした。

そして確固たる自信を持ちながら迎えた、日体大記録会前の最後のポイント練習。そこで、陸上競技人生最大の悲劇を迎えるのです……。

Seriesこの連載をもっと読む

この連載の記事一覧へ

私の4years.