大学陸上・駅伝

連載:私の4years.

楽しくてカッコイイ青学に入りたかった 元青山学院大陸上部・高橋宗司1

陸上は有名になりたいから始めたという高橋さん(657番)(写真はすべて本人提供)

連載「私の4years.」の9シリーズ目は、青山学院大陸上部で箱根駅伝初優勝時のメンバーだった高橋宗司(そうし)さん(26)です。1回目は、野球少年だった高橋さんが野球をあきらめて陸上を始め、青学に入学するまでのエピソードです。

日本一だって夢じゃない、と両親を説得

どの時期を切り取っても、仲間に恵まれたことが僕の人生の自慢です。

友だちの影響で小学3年生で野球を初め、6年生では宮城県で優勝し、「小学生の甲子園」とも呼ばれる全国大会にも出場できました。転機になったのは中1のときのスポーツテスト。学年1位になると、陸上の大会に駆り出されるようになり、中3のときに3000mで県8位の成績を残しました。

小学校の頃。野球に夢中になっていた少年でした

それでもまだ頭の中は野球一色でしたが、利府高校のオープンキャンパスで高校野球のレベルの高さを目の当たりにし、その数時間で「野球はやめよう」と決意。利府高校は部活動が盛んで陸上部も強く、家に帰るなり母親に「利府高で陸上やるわ」とだけ伝えました。

中学でも打ち込んでいた野球ですが、自分の限界を目の当たりにします

模擬試験で姉と同じ進学校には行けない判定が出ていて、野球も難しそうで、「まあ陸上ならできそうかな」という逃げの選択でもありました。進学校でもなく、そもそも本気で陸上に取り組んだことがない息子が通学に自転車と電車で計70分かかるスポーツ学校を選ぶことに、両親は猛反対でした。

「練習してないのに県8位なんだから、練習したら日本一だって夢じゃない」。ずっと、この一点張り。受験勉強と両親の説得を乗り越え、陸上の世界へ飛び込みます。

なんとなくはじめた陸上、もっとできるんじゃないかと思いました

好きじゃなかった陸上、次第に楽しく

しかし「陸上が好き」というのではなく、「陸上は自分が一番有名になれる方法」という考え方だったこともあり、県の強豪校の練習は予想の数倍もつらいものでした。加えて運動部独特の理不尽さがまったく理解できず、毎日先生に怒られていた記憶しかありません。これといっていい思い出が残るわけでもなく、半分やらされている中でしたが、それでも「速くなりたい」という思いはなくなりませんでした。中学生のときにはバスケ部の友だちにも負けていた400mインターバル走のラストスパートも、利府高校独自の練習である800mイメージ走(ペースを上げ下げして、ラストは全力)によって武器に変わり、勝負事に勝つ楽しさを覚えました。

頭の中になかった「箱根駅伝」というワードも、気づかぬ間にあこがれになっていました。それはテレビの中の大舞台を走れるという夢に近いような存在で、「有名になりたい」という思いはもちろんありましたが、「大学史上初の」や「○○年ぶりの」というような瞬間を味わえたほうが、順位に関わらず喜べるに決まってる、という思いもありました。

青学進学を決意、直談判のため横浜へ

箱根駅伝予選会の番組で見た歓喜の輪のひとつに、6学年上の利府高校の先輩、荒井輔(たすく)さん(青山学院大~JR東日本)がいました。箱根駅伝出場を33年ぶりに決めた選手たちは、みんなキラキラと輝いていました。本気で喜べる仲間がうらやましくて、「荒井先輩のような大学生活を味わいたい」という気持ちが湧き上がりました。根性論が大嫌いで、やらされる陸上はしたくない。「楽しく陸上がしたい」というあこがれは人一倍でした。加えて当時は「青学=都会、頭がいい、大学生活が楽しそう」というイメージ。「東京の有名な大学に行く=カッコイイ」という田舎者ならではの感覚もあって、「陸上5:私生活5」くらいで楽しめるだろうという甘い考えで、青学への進学を決意します。

利府高校陸上部の仲間たちと。だんだん陸上が楽しくなってきました

しかし一般的にスポーツ推薦で進学が決まる高2の時点では、青学から勧誘を受けるレベルには到底至っていませんでした。14分52秒という当時の5000mの自己ベストでは、あまりにも物足りません。初めて原晋監督と会ったのは高2の秋で、監督が高校の先生のもとへ挨拶(あいさつ)に来てくださったときでした。僕にちょっと興味があるという程度の話だったのですが、あこがれの大学の監督がわざわざ来てくれるなんて夢のようで、その冬にも別の大会のときにで挨拶に来てくださり、完全に入れると勘違いしました。そのときに「できれば14分40秒は切ってほしい」と言われてはいましたが、その後一向に連絡はなく、そのまま高3の春に。スポーツ推薦ならすでに決まっている時期であるため、焦って自腹で上京し、横浜の日体大記録会へ行ったこともありました。が、そこで正式に推薦を断られます。

ここでなぜあきらめなかったのかは振り返っても思い出せませんが、イライラして陸上雑誌を読む際も青学のページだけ飛ばして読んでいたことは、鮮明に覚えています(笑)。自分の思い通りにいかないことに納得がいかず、「絶対に振り返らせてやる」くらいの気持ちだったので、ほかの大学という選択肢は思い浮かびませんでした。

勝ち取った推薦、原監督の「泣くな」

あきらめの悪い僕は高3の県高校総体で1500m、3000m障害、5000mの3種目にエントリーし、それぞれ 3位(自己ベスト)、5位、7位(自己ベスト)と好結果を残します。5000mは7位で東北大会に行けませんでしたが、14分37秒でした。このタイムはその前年なら東北大会からインターハイへ進めるタイムです。それほど当時の宮城県がハイレベルな中でなぜ結果を残せたのか。僕の持ちタイムからは考えられず、いま振り返っても集中していたことしか覚えていません。努力したわけでもなく、特別なことをした記憶もありません。ただその4日間は、周りの友だちが話しかけられないくらいに本気でした。日常生活に支障があるくらい走ることしか考えられなくて、最終日は3障の決勝だったのですが、朝起きて学校の準備をしている最中に決勝があることに気付いたくらい、我を忘れていました(笑)。

僕の快進撃を聞きつけたのかどうかは不明ですが、最終日に原監督が宮城へ足を運んでくださり、滑り込みで推薦枠を勝ち取ることになります。
その後の東北大会は1500mで6位入賞、インターハイの切符をつかみます。もう1種目狙っていた3障では決勝まで進みましたが、インターハイ出場は逃してしまいました。泣いていた僕に原監督は「泣くな。男なら泣くもんじゃない。ただ泣くほど悔しいならその気持ちをこれからずっと覚えておきなさい」と言ってくれました。高校の顧問ではなく進学先の大学の監督に「泣くな」と言われるとは思いませんでしたが、熱くまっすぐな言葉は僕の心にずっと残っていて、その日から悔し涙を流すのはやめました。

高3になるまで「なんとなく速くなりたい」という自己満足のような気持ちで陸上に取り組んでいましたが、インターハイという未知の世界を経験することで、感じたことのない高揚感に包まれました。「箱根駅伝を走る」というとても難しい夢に近づいているのが感じ取れて、もう、頑張らない理由はありません。甘い考えしかなかった僕が、このころから少しずつ本気になり始めます。

思うように走れない焦りと苛立ちをかかえて 元青山学院大陸上部・高橋宗司2

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