大学野球

連載:4years.のつづき

不完全燃焼で終わった高校野球、高いレベルを求めて青学へ 久古健太郎・1

現在の職場でインタビューに答えてくれた久古さん(イメージカットは撮影・佐伯航平)

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。大学時代を経て活躍した先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ11人目は青山学院大硬式野球部のエースで、社会人野球に進んだあとプロ野球の東京ヤクルトスワローズに8年間在籍し、左の中継ぎ投手として実働7シーズン。いまはコンサルティング会社の「デロイト トーマツ コンサルティング」に勤務する久古(きゅうこ)健太郎さん(33)です。1回目は青学に入るまでの話です。

物心ついたときから野球に触れていた

北海道に生まれ東京都豊島区で育った久古さんは、父親の影響もあって物心ついたときから野球に触れていた。野球のある環境が当然だったという。小学1年生のときから地元の野球チームに入り、当初からピッチャー。「投げるのが得意で、左利きで、さらに打つのが苦手だったんです(笑)。だからピッチャー以外考えられなかったですね」。中学生のときは豊島シニアでプレーしていたが、強豪の高校からの推薦を何校かもらえるレベルになっていた。とくに熱心に誘ってくれたのが、国士舘高校(東京)だった。「小さいころから甲子園にあこがれてて、やっぱり出たいなという気持ちが強くて」。甲子園に出る夢をかなえるため、豊島シニアの監督や家族とも相談し、国士舘への進学を決めた。

入学すると、1学年上には新垣(あらかき)勇人(横浜商科大~東芝~日本ハムファイターズ)がいて、エースとして君臨していた。久古さんは2年生の春に選抜大会で初めて甲子園の土を踏んだが、「棚ぼた」との思いが強かった。

2003年春の選抜大会2回戦(対愛工大明電)で先発し、7回1失点と好投したが、0-1で敗れた(撮影・浅野哲司)

「秋の東京大会は調子が悪くて投げてないんです。だから全然チームに貢献しないで出ちゃったなっていう気持ちがあって。あと、甲子園といったらやっぱり夏に出たいな、という思いがありました。だから夢が半分叶(かな)って、半分やり残した気持ちでした」

青学のセレクションの日だけ絶好調だった

3年生のときはエース。絶対に甲子園に出たいと思って臨んだ東東京大会は準々決勝で正則学園に負け、久古さんの最後の夏は終わった。「調子がよくなくて、自分の思うようなピッチングができませんでした。すごくやり残した感もあって、周りのみんなに申し訳ない気持ちでした」。不完全燃焼で終わってしまった高校野球。漠然と、大学か社会人で野球を続けたい気持ちはあった。プロへのあこがれはあったが、当時はその世界にたどり着けるとは、一切思っていなかった。

「進路に迷っていたときに、永田監督(当時)が『大学に行くチャンスがあるから、セレクションを受けてみろ』と言ってくれました。それが青学でした」。3年生のときは「ほとんど調子のいい日がなかった」という久古さん。「それが青学のセレクションの日だけ奇跡的に調子がよくて、いいボールがいって合格できたんです」と笑う。系列の国士舘大に進む道もあった。それでも青学を選んだのは、なるべく高いレベルでやりたいという思いがあったからだ。当時の青学は東都1部の強豪だった。

「試合に出られないのは当たり前」

青学の野球部は基本的に推薦で入ってくる部員がほとんどで、1学年6、7名と少数精鋭だった。そのため、早くからベンチ入りのチャンスは巡ってきた。「実力が分かってる3、4年生より、未知の1年生にかける期待もあったんじゃないかと思います」。ベンチ入りはできたが、なかなか出場機会は巡ってこなかった。それでも焦る気持ちはなかった。

当時は「青学に入れただけでラッキー」と思っていたという

「大学に入って、先輩たちの体の強さを目の当たりにして圧倒されました。それまで筋トレはとくにしてなかったんですが『トレーニングしないとまずいな』と思って、やり始めました。僕は大学に入れたこと自体がラッキーだと思ってて、満足してたところもあったんです。だから最初から試合に出られないのは当たり前だと、どこかで思ってるところがあって。最初は『いまはしっかり体を作る時期だ』と割り切って、試合に出られなくてもしっかりトレーニングしよう、という気持ちでした」。自分の立ち位置を見極めていた久古さん。その思考の原点は、青学の自由な雰囲気と、厳しいトレーニングにあった。

この記事をシェア

Seriesこの連載をもっと読む

この連載の記事一覧へ

4years.のつづき

Their Stories大学別・競技別に読む