野球

連載:4years.のつづき

日産自動車野球部で学んだ「とにかく出しきろう」精神 久古健太郎3

社会人野球で久古さんは技術より大事な精神を学んだ(写真は本人提供)

大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。大学時代を経て活躍した先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ11人目は青山学院大硬式野球部のエースで、社会人野球に進んだあとプロ野球の東京ヤクルトスワローズに8年間在籍し、左の中継ぎ投手として実働7シーズン。いまはコンサルティング会社の「デロイト トーマツ コンサルティング」に勤務する久古(きゅうこ)健太郎さん(33)です。3回目は社会人野球で学んで考え方や、野球人生で一番の達成感を得た出来事についてです。

自主性を大事にする青学で自分を見極め、社会人野球の世界へ 久古健太郎・2

23歳にして変えたピッチングフォーム

大学卒業後も野球を続けたいと入った社会人野球の世界だったが、ここで予期せぬことが起こった。入寮後わずか2週間ほどで「日産自動車野球部はこの1年を終えたら休部するため、次の行き先を考えろ」と全員に通告されたのだ。「入ったばっかりだったので『ちーん』って感じもありましたよ(笑)。でもどこかそのときは楽観的で、『なんとかなるだろう』『どこかでできるだろう』という感じもありました」。しかし、日産は青学とはまったく違い、厳格な雰囲気のチームだった。

久古さんは新しい環境に適応できず、まったくストライクが入らなくなる……。「人生で一番調子が悪い」という状態に陥ってしまった。「夏前ぐらいが本当に調子が悪くて、『路頭に迷う』っていう表現がぴったりくるぐらいでした。周りの人たちは次々に新しい所属先が決まっていくのに、自分は決まらないっていう焦りもありましたね」。そんな久古さんに声をかけてくれたのは、日本製紙石巻だった。都市対抗の東北予選で敗退し続けていたチームが、ちょうど強化を始めたタイミングだったのだ。

投げ方を変えることには抵抗がなかったという(撮影・佐伯航平)

行き先の決まった久古さんは最悪な現状を打破するため、コーチにフォームを変えたいと相談した。それまでオーバーハンドの一般的な投げ方だったのを、サイドスローにしたいと言ったのだ。「大学4年生のころから、横からのほうが投げやすいかも? って思ってたんです。調子が落ちるところまで落ちたから、もう何でもやってみようと思って」。結果的にこれは成功し、久古さんは本来のピッチングを取り戻した。

勝っても終わり、負けても終わり

そしてこの日産自動車での1年間で、いままでになかった感情を持った。「もう休部が決まってるんで、勝っても終わり、負けても終わりなんです。だから、とにかく出しきろう。この試合で後悔がないように出しきろう、と。こういうモチベーションを持ったのは、このときが初めてでした」。結果的に日産自動車野球部は都市対抗と日本選手権でともにベスト4の成績を残し、その歴史に幕を下ろした。全員が「出しきった」結果だった。

勝っても負けても終わり、だからこそ。この経験は大きな財産となった(写真は本人提供)

日本製紙石巻に移籍した久古さんは、主に先発として活躍した。日産のときに学んだ「出しきろう」の精神は、ここでも役に立った。「勝つより、出しきらないと意味がないと思えるようになりました。野球がしたくても、会社の事情でやめなきゃいけないこともある。だから野球ができる環境に素直に感謝できるようになりました。会社の人たちはすごく応援してくれるので、少しでも恩返ししたいなと。あとから結果はついてくるから、とにかく出しきろう。そして、目標である都市対抗出場を絶対達成しなきゃ、と思いました」

野球人生で一番の達成感

それまで予選敗退を続けてきたチームは、勝つことを覚えて少しずつ変わってきた。負け癖がついていたのが「負けると悔しい」に変わり、「頑張れば勝てる」に変わった。久古さんの「出しきる」気持ちはほかの選手にも伝わり、東北予選に全勝して都市対抗の本戦初出場を果たした。「都市対抗の出場が決まったときは、とにかく達成感がすごかったです。野球人生で一番うれしかった瞬間ですね」。高校のときは「棚ぼた」のセンバツ。大学では自分の力で優勝したわけではない。いつもどこか不完全燃焼だった久古さんが、初めて自分の力で大きな目標をつかみとった瞬間だった。

そんな久古さんに、東京ヤクルトスワローズから「ドラフトで指名する可能性がある」という連絡が来た。選手がプロに行くとチームが弱体化するため、出したがらない社会人チームもあるが、日本製紙石巻は違った。「どんどんプロに出そう! という機運があって、快く送り出してくれました」。そして2010年10月28日、久古さんはスワローズから5位指名を受けて、プロ野球選手になった。

日本製紙石巻の仲間は、久古さんを快く送り出してくれた(写真は本人提供)

「指名を待っているときは本当にドキドキしました。自分の名前が呼ばれてホッとした、というのが一番大きかったですね」。大学のときはあこがれていても、自分には無理だと思っていたプロの世界。自分の現在地とプロへのギャップを考えたときに、そこを埋めるにはどうしたらいいか、冷静に考えていた。大学時代に身についた自主性があったからこそだ。「いま考えても、すべてのことがつながってると思います。中学、高校、大学、社会人……。場面場面でいろんなことを学べたから、プロになれたんだなと思います」。プロになって戻った神宮のマウンド。そこは、大学時代とはまったく違う場所だった。

どうすれば成長できるか、その本質を伝えていきたい 久古健太郎・4完

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