横浜高校1年生の夏、甲子園で試合に出てプロ志望を固め、東海大へ 荒波翔・1
大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。大学時代を経て活躍した先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ12人目は東海大硬式野球部で首都大学リーグの首位打者を獲得、社会人野球に進んだあとプロ野球の横浜DeNAベイスターズに外野手として8年間在籍し、今年8月に引退した荒波翔さん(33)です。連載の1回目は横浜高から東海大に入学して変わったことについてです。
中学時代に戸塚シニアで全国制覇
横浜市出身の荒波さんは、小学校から野球を始めた。中学時代は地元の戸塚シニアでプレーし、キャプテンとして全国制覇もなしとげた。本気で野球を続けたいと、全国屈指の強豪である横浜高校に進学。同学年の選手には成瀬善久(ロッテ~ヤクルト~オリックス)がいた。1年生の夏、横浜は神奈川県大会を勝ち抜き、甲子園に出場。荒波さんは早くもベンチ入りを果たし、試合にも出た。そのとき、それまでぼんやり「プロになりたい」と考えていたのが、はっきりとした目標に変わったという。「1年生から(甲子園で試合に)出られたので、そこで(プロに)いけるんじゃないかとはっきり思いました」
荒波さんは高校野球ファンの中でも知られる存在となった。しかし、3年生の春の選抜大会2回戦、明徳義塾(高知)戦で自打球を当て、足を骨折してしまう。広陵(広島)との決勝は、松葉杖姿でベンチに入った。「決勝で負けてしまって、僕が出てたら勝ってたかもしれないと思うと、なんともいえない気持ちになりました。でも、しょうがないと思って切り替えました」
プロ志望届を出さず、東海大に進学
横浜からは直接プロに進む選手も多い。荒波さんはしかし、高3のときはプロ志望届は出さなかった。「野手ということもあって、なかなか厳しいだろうと。大学に進むのは、監督さんと話して決めました」。のびのびとできる雰囲気が気に入って、進学先には地元の東海大を選んだ。
高校野球と大学野球の最も大きな変化は、バットが金属製から木製に変わることだ。打球が飛ばなくなって苦労するバッターも多いですよね? と尋ねると「飛ばなくなるというより、バットがめちゃくちゃ折れました」と言って笑った。「木になると全然感覚が違います。練習で打席に入って自分のバットを折って、仕方ないから先輩にバットを貸してもらって、またそれも折って(笑)。借りたバットを折るのが一番気まずいですよ。しかも先輩のだし。いまでも覚えてます(笑)」
大学に入ると、3学年上の先輩がいて、当初はそれに戸惑ったという。野球部は全寮制で、1年生は部屋長の先輩の洗濯もしないといけなかった。高校のころよりずっと忙しくなった。「グラウンドのボール拾いも1年生の仕事で、毎日全員で列になってグラウンドをきれいにするんです。練習が終わって絶対に全部拾ったはずなのに、朝になったらグラウンドにボールが落ちてる。隣が寮だったので、誰かが寮からボールを投げ入れてるらしい、なんて話が都市伝説みたいにささやかれてました(笑)。いまとなっては、いい思い出ですけどね」
同室の4年生のおかげでルーキーから活躍
大学でも荒波さんは1年生からベンチ入りし、レギュラーの座をつかむ。しかし試合に出ていても1年生としての仕事はあるし、授業にも出なくてはいけない。とくに1、2年生のときは早く単位を取りたいという気持ちもあり、1限から5限までしっかり授業を受けて、そのあと夕方から夜まで練習というハードスケジュールだった。「スポーツ推薦なので、ある程度融通がきくとはいえ、結局授業はほかの(推薦でない)人たちと一緒。最初は何言ってるのか全然わかりませんでした(笑)。体育学部だったので運動のことや筋肉とか骨という興味がある話だったから、まだなんとか勉強できました。これが法学部なんかだったら、卒業できてたかどうかもわからないですよ」と笑う。
大学でとくに印象に残っているのは、スポーツ心理学の授業だ。いまでこそスポーツ選手のメンタルケア、メンタルコントロールは当たり前のことになっているが、当時はイチローがメンタル面について言及し始めたころで、スポーツに心理学を取り入れる考え方はまだ一般的ではなかった。「あのころ教わったことが、いまになってつながる部分が多いです。プロになって役立ったこともあるので、経験しておいてよかったと思います。高妻(容一)先生はまだ東海大にいらっしゃるので、今度話を聞きに行きたいなと思ってます」。そのときの教えがずっと生きている、と荒波さんは感謝を口にする。
荒波さんは、1年生の春から首都大学リーグの首位打者になったが、それは先輩からの教えが大きかった。「寮で落合(成紀)さん(現・JFE東日本硬式野球部監督)と同室になったんです。落合さんは首位打者を3回、ベストナインを5回取ったすごい人で、最初は1年と4年ということもあって、怖かったです。でも練習の手伝いをしたり、夜間練習も一緒にしたりして、野球に対する考え方を聞いたり、教えてもらいました。それもあって大学の野球になじめて、すぐにいい結果を出せたんじゃないかと思います」。当時の東海大では、期待しているルーキーと実力のある先輩をわざと同室にしていたのではと、荒波さんは推測する。
「その(首位打者になった)ときは『すごい』とか全然わからなかったんです。すごいチームメイト、先輩がいる中で試合に出させてもらって、その人たちに認めてもらいたい、その人たちの分もしっかり頑張らなきゃと思ってました。首位打者をとって、ある程度周りが納得してくれたので、それはよかったと思います」
首位打者になれたことで、荒波さんは自分の立ち位置を確立できた。順風満帆で始まった大学生活だったが、2年生の春に思いがけないことが起こる。