野球

連載:4years.のつづき

東海大時代の大けが、自分を成長させるターニングポイントになった 荒波翔・2

2007年の全日本大学野球選手権での荒波さん。赤いリストバンドは「目立つために始めた」という(写真提供・東海スポーツ)

「4years.のつづき」のシリーズ12人目は、東海大硬式野球部でリーグの首位打者を獲得、社会人野球に進んだあとプロ野球の横浜DeNAベイスターズに8年間在籍し、今年の8月に引退した荒波翔さん(33)です。連載の2回目は東海大時代に経験したけがと、そこから得たものについてです。

横浜高校1年生の夏、甲子園で試合に出てプロ志望を固め、東海大へ 荒波翔・1

2年生の春のキャンプで前十字靭帯断裂

上々の滑り出しとなった大学生活だったが、2年生の春のキャンプで思いがけないことが起こる。盗塁をした際に膝(ひざ)があらぬ方向に曲がり、前十字靭帯の断裂という大けがを負ってしまったのだ。俊足が自分の武器だと認識していた荒波さんは「もう走れるかどうかわからない」という不安や、「プロになれないんじゃないか」という思いにさいなまれて絶望し、投げやりになりかけた。

けがをした荒波さんは、思い切って1年休むことに決めた(撮影・佐伯航平)

前十字靱帯断裂は6カ月ぐらいで復帰できるケースもあるが、「本当は1年ぐらいかけてゆっくり治せればいいね」と、病院の先生や野球部の監督たちに言われたという。まだ2年生だったということもあり、荒波さんは思い切って1年間プレーを休むことに決めた。「そのとき無理しないで休めたのが、結局すごくよかったです。そのあと古傷が傷むってこともなかったですから」。それでも野球のできない一年は、これまで野球漬けだった荒波さんにとってはつらいものでもあった。「寮にいたら野球が目の前にあって、どうしても野球がしたいって思ってしまうので、実家に帰りました。あのとき寮にいたらきっと、もっと焦って無理をしたかもしれない。両親や支えてくれた人たち、みんなに感謝だなと思います」

けがは「ターニングポイント」

1年間プレーできないという、野球選手としては厳しい状況に置かれた荒波さんだったが、このけがは「ターニングポイントになった」と言いきる。「それまでずっと試合に出させてもらってたんですけど、東海の部員って120人ぐらいいるんです。当たり前に練習もしてたけど、人の手伝いだけで一日が終わる選手もいる。けがをして初めて裏方や、サポートしてくれてる人の動き方を体感し、実感できました。それは、たぶんあのまま試合に出てたら分からなかった、経験できなかったことなので……。『けがの功名』じゃないけど、視野が広がりました」。確かに、プレーし続けている人からは遅れをとったことになるかもしれない。しかし、その時期に考えたことがその先、そしていまにつながっていると話す。

3年の春、公式戦に復帰した荒波さん。野球ができる喜びをかみしめながら、好結果を残した(写真提供・東海スポーツ)

「あと、『これがあったからよかったです』と言えるようにしよう、と思ってました。けがしたことは取り返しがつかない、終わったことはしょうがない。だからこの時間で、野球をやってたら見られなかった部分を見られるようにしようと思ったんです」。この時間にも意味がある。そういうプラス思考でいないと自分を守れなかった、保てなかったとも明かしてくれた。

そして荒波さんは3年生の春から公式戦に復帰した。野球ができるありがたみ、うれしさを感じた。それと同時に、プロに進むためにはしっかりといい結果を出さないといけないなと、身の引き締まるような思いもあった。その春リーグで打率2位となって世界大学野球選手権の代表に選ばれ、外野手としてベストナインに選ばれた。「もしこのとき結果を出せなかったら、けがも嫌な思い出になったと思います。でもいい結果を残せたことで、そのための経験だったんだなと思えました」

日本代表に選ばれ、猛者たちに受けた刺激

何より世界大学選手権の日本代表になれたのは、荒波さんの野球人生にとって大きな経験となった。「選ばれていたのはほとんど4年生で、すごいメンツでした。セレクションの時点からすごい選手がそろってて、正直選ばれるとは思ってなかったんです。その中でやれたのは、本当に大きかったです」。4年生で選ばれていたのは、日大の長野久義(現・広島東洋カープ)、駒澤大の野本圭(中日ドラゴンズ~引退)、東北学院大の岸孝之(現・東北楽天ゴールデンイーグルス)ら、ほとんどがプロにいった選手ばかり。そういった選手たちのプレーを目の当たりにすることで、目標とするレベルが明確になった。

「プロにいくのはこういう人なんだな、というのを肌で感じられました。その中に入って経験、体験してみないとわからないことも多いなと。たとえばベイスターズが初めてCSに進んだとき、あの舞台を経験して環境に慣れたのが大きかったなと思います。経験することで、それが当たり前になる。すごい人たちと練習、試合をして、こういうふうになりたいと思えました。すごく貴重な経験でした」

大学4年ではリーグ優勝を経験したが、個人としては「あんまり活躍していない」という(写真提供・東海スポーツ)

もともと足は速かったという荒波さん。プロにいくために足りないことを考えたとき、バッティングを強化しないといけないと考えた。プロでの荒波さんの代名詞といえば「俊足・堅守」だが、そこは当時、いい意味で「いい加減だった」という。「走塁や守備は能力任せでできてたというか、それよりとにかくバッティングだと思ってました。練習もとにかく打つ、打つことにフォーカスして長時間取り組んでました」。4年生のときは、前年と比べて「あんまり活躍してない、あんまり打てなかった」と振り返る。「焦りやプレッシャーもありました」

プロ志望届を出して指名を待ったが、荒波さんを指名する球団はなかった。それまでずっと「プロになる」という目標だけに向かって野球に取り組んできたので、実際に「いけない」と分かったとき、一時的に目標を見失ってしまったという。「プロになれなかったらもう野球を続ける意味なんてないって考えてたんで、社会人に進んで競技を続けるかどうかというのにも迷いました」と振り返る。トヨタ自動車がずっと声をかけてくれてはいたが、プロしか見ていなかったので、あまり真剣に考えることはなかった。

結果的にいろいろな人と話をして、社会人野球の道に進むと決めた。これが、一人の人間としての成長を大きく促すことになった。

社会人3年目、初めて「応援してくれる人のために」とプレーした 荒波翔・3

4years.のつづき

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