野球

連載:4years.のつづき

1度きりの人生だから、新しいことに挑戦し続けたい 荒波翔・4完

2013年、神宮球場でタイムリーヒットを打つ荒波さん(撮影・長島一浩)

連載「4years.のつづき」のシリーズ12人目は、東海大硬式野球部でリーグの首位打者を獲得、トヨタ自動車から入ったプロ野球の横浜DeNAベイスターズに8年間在籍し、今年の8月に引退した荒波翔さん(33)。最終回はプロ時代のこと、これからのことについてです。

社会人3年目、初めて「応援してくれる人のために」とプレーした 荒波翔・3

他の選手に勝つために、守備と走塁を強化

ベイスターズに入団し、地元に戻った荒波さん。横浜高校時代に1学年下にいた石川雄洋(たけひろ)とも、7年ぶりにチームメイトになった。高校時代から応援してくれていたファンの存在もあり、地元でプロ野球選手になれてよかったと感じたという。

一方で、周りにいるすべての人が「すごい」と思えて、「みんな自分より上だ」と感じられた。早く自分の色を出さなくてはと考え、自己分析した結果、バッティングはほかの選手のほうが一段階も二段階も上。自分が争えるのは、守備、そして足だと考えた。守備がよければ、たとえスタメンでなくても試合の後半で守備固めから出してもらい、代打で打席に立つチャンスも巡ってくる。代走もまたしかり。長所を徹底的に伸ばそうと、プロに入ってからは守備、走塁の練習に本気で取り組んだ。

DeNAベイスターズの成長とともにあったプロ生活

プロ1年目はほぼファーム生活が続いたが、2012年、プロ2年目のときにチームは親会社が変わり、横浜DeNAベイスターズとして生まれ変わった。中畑清監督が就任し、「機動力野球」を掲げるチームの方針とマッチした荒波さんは開幕戦のスタメンに抜擢(ばってき)される。「試合に出たと言うより、使っていただいた、という気持ちのほうが大きいです。チャンスを与えてもらって、その中で必死にあがいていたという感じ。中畑さんには感謝しています」。141試合とほぼフル出場となり、ゴールデングラブ賞を獲得。一気に野球ファンの間に名前が広まった。

打席に向かう荒波さんに指示を出す中畑清監督(撮影・高橋雄大)

球団の親会社がDeNAとなり、人気球団となっていく過程を見ながら一緒に成長できたことも、荒波さんにとっては大きな経験となった。はじめは土日でも空席の目立っていた横浜スタジアムがどんどん満員になり、チームカラーの青で埋め尽くされるようになった。「ファンがいない時代と満員の球場の両方を経験できたのはとてもよかったと思います。いまは毎日ほとんど満員で、それがある意味『当たり前』みたいになっちゃってるところもありますけど、そうじゃない時代もあったんだよ、と。やっぱり満員の中で野球をする楽しみってすごいです。僕だったらタオルを回してもらったりした応援の力は、めちゃくちゃ感じました。自分でできない力をもらえる部分があります。例えば、ファンサービスをすることでプレーに支障があることもあるんだけど、ファンがいるから僕たちも頑張ろうと思える。球団、選手、ファンの三つが全部つながってるから、関係性がうまく、よりよくなっていけたらいいなって思いますね」

理不尽なことがあっても、ただ努力する

2012、13年と連続でゴールデングラブ賞を受けたのち、14、15年はけがもあって70試合程度の出場にとどまった。年を追うごとに、徐々に出場機会が減っていった。当時の心境はどうだったのだろうか? 「最初は2軍で結果を出しても(1軍に)上がれなかったりして、すごく理不尽だと思ってふてくされたり、自分の感情をコントロールできない部分もありました。そんなときに森本稀哲(ひちょり、日本ハムファイターズ~横浜DeNAベイスターズ~埼玉西武ライオンズ)さんと話したりして、『球団を含めていろんな人が見てくれてるから、理不尽だと思ってもその場でしっかりやり続ける』ということを学びました。(1軍と2軍の)上げ下げって、自分に決定権がないことなんです。ふてくされてたら(上に)上げてくれるかというと、そうではない。でも、いい成績を残さなかったら上がれないから、モチベーションは保ち続ける。そういうメンタルの面がだんだん成長できたと思います」。

2018年に戦力外通告を受けたときも、2軍で打率3割を打っていた。それは、成績を出さなかったからダメだ、と言われないための一心だったという。「(1軍に)上がれないことはもちろんショックなんですけど、しょうがない、と割り切れるようにもなりました。その分毎日やれることをやって、自分で後悔しないようにしようと思って。そういうメンタルコントロールが徐々に完成形に近づいていって、気持ち的には強くなっていきました。それが今後生きてくるとも思うんです」。苦労した分、しんどかった分、置き換えられる引き出しが増えてきた、という。大学時代に触れたスポーツでのメンタルコントロールが、いまにずっとつながっているのだ。

メキシコ・モンテレイでの荒波さん(球団提供)

いまでも現役の選手との交流も多々あり、相談を受けることもあるという。実力のある選手が中途半端な気持ちで過ごしているのを見ると、「もったいない」と思う。自分のことを守れるのは自分しかいない、後悔のないように。いろいろ思うことはあると思うけど、飲みこんで大人になったほうがプラスは多い、という気持ちでアドバイスしている。

メキシコへ、最後の挑戦

戦力外にはなったが「まだやれる」と思っていた荒波さんは、メキシコに渡って野球を続けることを決意する。戦力外になって5カ月、一人きりで練習していた期間がつらすぎて、その期間をムダにしたくないという思いもあった。だが「とにかく怖くて、不安しかなかったです」と振り返る。「海外に行きます、って人はよくいると思うんですけど、『行きます』って言うのと、実際に行く一歩って全然違うなと思いました。14時間以上かけてメキシコに向かっている間にどんどん不安になって。本当に重い一歩でした」。家族や友だちのサポートがあったから行けたが、自分ひとりだったら無理だったかもしれないと振り返る。

荒波さんはインスタなどで積極的に挑戦の様子を発信した(球団提供)

結果的に荒波さんはモンテレイ・サルタンズのテスト生から選手契約を勝ち取り、スタメン出場で3割を打つ活躍を見せた。しかし6月末、突然の戦力外通告を受ける。かねてから球団が獲得したいと考えていた外国人選手が入団することになり、荒波さんが押し出される形となった。「そりゃ理不尽だとも思いましたけど、文句を言ったところで戦力外通告はなしね、となるわけでもないんで。それよりは、もしこのあとに日本人が来るんだったら、印象を悪くしたくないなと思って、いち社会人として礼儀正しく帰ってきました」

やりきった、とはもしかしたら言いきれないかもしれない。でも挑戦できた、新しいことを体験できた。踏んぎりをつけて2019年8月31日、現役引退を宣言した。

挑戦を続けている人生

荒波さんの話を聞いていると、しっかりと自分のことをコントロールできているように思える。思わずそう問いかけると「そうしないとやっていけなかったというのもあります」と返ってきた。「経歴だけ見たらエリートだね、順風満帆だねと言われることも多いんですが、けっこう浮き沈みのある人生だと思います。ずっとプロにいきたいと思って、高校でダメで、大学、社会人と挑戦していってかなったし、メキシコには裸一貫で行って。挑戦を続けてる人生ですよね。それがまあ、いまではいいなと思いますけど。逃げ道もあるし(笑)」

これからのことも笑顔で語ってくれた荒波さん(撮影・佐伯航平)

今後は、独立リーグ・神奈川フューチャードリームスの球団アドバイザーに就任することが発表された。「選手で」という誘いもあったが、球団経営など、今まで野球に関わってきたが「見えていなかった」部分を見てみたいという思いがあり、フロントに入ることにした。「どうやって人を集めるか。お金もないので、ベイスターズ以上に難しいことだと思うんです」と言いながら、少し楽しそうだ。横浜に育ててもらったので、将来的には横浜に還元、恩返しをしたいという気持ちがあるという荒波さん。いつかベイスターズに戻れるなら、また自分の役割を果たしたい、とも思っている。「1度しかない人生だし、いまだって不安しかないですけど……。不安があるからこそ努力できるし、頑張れるんだと思います」

最後に聞いた。荒波さんは、野球が好きですか?

「自分ではあんまり好きとは思わないけど……。いや、でも好きじゃなかったら、メキシコまで行ってないですよね。いろんな人と話すと『本当に野球好きだよね』って言われるから、好きなんだと思います(笑)」

これからも、大好きな野球と関わっていく。

「これからいろんなことをやれると思うので、楽しみですよね」。そう言って、荒波さんは現役時代と変わらない笑顔を見せた。

父の言葉でアイスホッケーに生きると決め、浪人生活へ ひがし北海道クレインズ松野佑太1

4years.のつづき

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