父の言葉でホッケーに生きると決め、浪人生活へ ひがし北海道クレインズ松野佑太1
大学生アスリートは4年間でさまざまな経験をする。競技に強く打ち込み、深くのめり込むほど、得られるものも多いだろう。大学時代を経て活躍した先輩たちは、4年間でどんな経験をして、社会でどう生かしているのか。「4years.のつづき」を聞いてみよう。シリーズ13人目はアイスホッケー「ひがし北海道クレインズ」のウイングプレーヤー松野佑太さん(24)です。2回の連載の前編は、大学卒業後もアイスホッケーを続けるのか、についての葛藤の日々を描きます。
アイスホッケーの日本のトップリーグにあたる「アジアリーグ」は、日本4、韓国2、ロシア東部1の計7チームで構成される国際リーグだ。日本の4チームの一つ、ひがし北海道クレインズのホームは、ホッケータウンの北海道釧路市。その釧路で育った松野は、日体大を卒業して2年目の2019年夏、テストを経てクレインズに入団した。昨シーズンまで企業チームだったクレインズにとっては、新体制の「一期生」ということになる。
アジアリーグに参加するチームはだいたい22~25人の選手を抱え、新人の採用は日本の4チーム合わせて、多くて年間10人ほど。高校を卒業してすぐに入団する選手も含まれるので、相当に狭き門になる。大学卒業時に声がかからなかった松野は、1年半の「浪人」生活を過ごしている。
明治を倒し、競技への思いが大きくなった
ホッケーで生きるのをあきらめない。松野がその思いを強くしたのは、彼が日体大の2年生だった2016年1月のインカレだった。日体は準決勝で優勝候補の明治を破り、創部初となる決勝に進んだ。明治戦は3ピリオドを終えて2-2の同点、5分間の延長でも勝負が決まらず、エースFWの松野のゲームウイニングショットで決着がついた。
当時の大学アイスホッケーは、中央と明治の「2強」時代。圧倒的な攻撃力を誇った明治との準決勝を、松野はこう振り返る。「第1ピリオドの7分、8分と立て続けに点を取られて、正直、終わったと思いました。1-8くらいのスコアで負けるんだろうなと。ただ、あの日は僕だけじゃなく、みんな集中が切れなかった。決勝では中央に負けて準優勝でしたけど、あの明治戦で自分のホッケー人生が変わりました。『やっぱ卒業後もホッケーやりてえな、もう一回トップリーグにチャレンジしよう』と思うようになったのは、間違いなくあの試合です」
松野はもともとアジアリーグ、とりわけ地元のクレインズに入るのを夢見てプレーしてきた。釧路湖畔小学校1年生のときにホッケーを始め、青陵中学校時代はずっと「釧路選抜」のメンバー。インターハイ優勝を目標に掲げる強豪の武修館高校でも1年生から試合に出るなど、エリートコースを順調に歩んでいた。
ところが高2になると、ベンチには入っても試合に出られない日が続いた。「日本一を目指してる高校です。競争は激しかった。試合に出られないことで、自分の気持ちが揺らいでしまったんです。『オレの人生、ホッケーだけじゃねえし』みたいな」と松野。アイスホッケーの場合、高2の1月にあるインターハイを終えた段階で、卒業後の進路があらかた定まってくる。その大事なインターハイに出場できなかったことで、松野の目指す場所はアジアリーグではなくなった。「父さんが体育教師なんです。だから自分も大学では教員を目指して勉強しようと。それで日体に行くことを決めました」
夢のアジアリーグへ、駆け抜けたラスト1年
松野が入学を決めた時点で、日体は関東の2部にいた。松野は「自分はずっと2部でやるんだ」と思っていたという。「日体に入った時点で、上(アジアリーグ)にいく可能性はないと思ってました。教師になって、どこかでホッケーに携われたらいいなと」。ところが入学前の関東リーグで、先輩たちが入れ替え戦に勝って1部に昇格。結果的に松野は4年間、1部リーグでプレーし、仲間とともにチームをさらに強くしていった。2年生のときのインカレ準優勝は、その間の出来事だった。
そのインカレを終え、卒業後もアイスホッケーで生きていきたいと決意を新たにしていた松野に、あるチームのスカウトが「これから注目させてもらいますよ」と声をかけた。そして3年生の夏、釧路に帰省したときにはクレインズの練習にも参加した。「何もかもレベルが違いすぎたけど、練習してて楽しかった。この中で練習を続けられたら、もっとうまくなれるんだろうなあと思いました」と、松野は言う。
4年生になると、松野は日体のキャプテンになる。チーム全体、とくに攻撃のレベルアップのために、周りの選手を使うことを意識するようになった。松野がパスを供給し、ほかのFWがスコアすることで、攻撃に厚みを加えようと考えたのだ。考え方としては間違っていない。しかし松野の持ち味であるパワフルなドライブ、相手と正面からバトルといった強いプレーは、徐々に影を潜めていった。
大学最後のシーズンを終えた松野のもとに、アジアリーグのチームからの誘いはなかった。前年に続き、夏休みにはクレインズの練習に参加したが、当時のクレインズは大学の選手の間で「行きたいチーム」のナンバーワン。選手層もリーグ屈指の厚さだったことで、松野に声はかからなかった。
父の想定外の言葉で心が決まった
日体を卒業した時点で、松野は無職。それでもトレーニングを続け、5月には韓国のチームのトライアウトを受けに行った。しかし、採用通知は来なかった。「どうしようかなあと思いました。これから、どうやって生きていけばいいんだろうと。高校時代の同期が釧路で就職してて、彼に相談したら、会社に大卒採用の空きが一つあると聞いて、面接を受けに行ったら『いつから来られる?』みたいな話になって」
スムーズに入社が決まった。その日の夜、松野は家に帰ると、父の清佳さんに「トライアウト受けてダメだったし、働こうと思うんだよね」と告げた。釧路ではなかなかの規模を誇る会社だ。「父さんは喜んでくれるだろう」と、松野は思っていた。そして清佳さんの第一声は「そう……。いいんじゃない?」だった。しかしそれに続く言葉は、松野が予想していたものとは違っていた。「けど、オレがおまえの立場だったら、もうちょっとやるけどな」
父さんが言ったのはどういう意味なんだろう。松野は部屋に戻って、一人で考えた。考えていくうちに、心の中で徐々にアイスホッケーへの熱がこみ上げてくるのを感じたという。「そうだ、やんなきゃダメだよなって。ここであきらめたら、ホントの終わりじゃねえかと思いました」
採用すると言ってくれた会社には翌日、「申し訳ないです」と頭を下げに行った。それは同時に、松野の浪人生活の始まりでもあった。牛丼のチェーン店と居酒屋でのアルバイトを掛け持ちしながら、トップリーグを目指して一人で練習する毎日がスタートした。
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