早稲田主将・青木孝史朗は「最後の戦い」と決め、仲間たちと早慶戦のリンクに立った
アイスホッケー 第84回早慶冬季定期戦
1月11日@東京・ダイドードリンコアイスアリーナ
早稲田大 3-0 慶應義塾大
ホッケー選手らしい前傾姿勢のスケーティングは、最後まで見られなかった。2年前の関東リーグで右ひざの靱帯(じんたい)を痛めた。そして4年生になった昨年の春も関東選手権で左ひざの靭帯を痛め、12月末のインカレで再び左ひざを負傷。2週間前は松葉づえをついていた。それでも早稲田大のキャプテン、FW青木孝史朗(こうしろう、4年、埼玉栄)は早慶戦に強行出場。勝利を決定づけるゴールを奪った。
2年生のころから相次いだけが
2-0と早稲田がリードし、最終の第3ピリオドを迎えた。青木はニュートラルゾーンから単独でパックを持ち込み、ゴールに向かって内側に切り込んでから、バックハンドでGKの股下を抜いた。勝利を強く引き寄せる3点目。このまま試合は終わり、青木はMVPに輝いた。「これが最後」と決めて臨んだ試合で輝いた。
アイスホッケーのインカレは昨年12月25日から、北海道釧路市で開かれた。青木は準々決勝の東洋大戦で、第1ピリオド16分に負傷退場している。「相手からボディチェック(体当たり)をもらって、左ひざがゴリッと鳴ったんです。その音と痛みが……。『ああ、これは前にやったのと同じだなあ』って。足、動きませんでした。『あ、オレはここで終わっちゃうんだ』と」。担架で運ばれ、すぐに病院へ。ネット中継で試合展開を追い、松葉づえを手にリンクに戻ろうと車に乗り込んだとき、2-4で敗戦が決まった。勝った東洋大は、その後の2試合にも勝ってインカレを制した。
昨年末にもけが、早慶戦2日前に出場決めた
リンクに戻った青木を、後輩たちは泣きながら迎えた。「後輩はみんな『勝てなくてすみません』と謝ってくれました。でも、本当に申し訳なかったのは自分の方なんです。試合の途中でいなくなったわけだから」。春の関東選手権も、試合途中に負傷退場。リハビリを積んで秋の関東リーグに出場したが、春に続いてチームは優勝を逃した。インカレは学生最後の優勝のチャンス。その舞台も、青木はまっとうできなかった。
インカレを終え、12月29日に帰京。翌30日には長野の実家に帰り、その日からスポーツジムに通って筋トレとウォーキングを重ねた。ドクターも青木本人も、2週間後の早慶戦の出場はありえないと考えていた。それでもキャプテンとして、せめて試合前のあいさつだけでも氷の上でできればいいと思っていたのだ。「でも、痛みが日に日に小さくなっていったんです。試合に出られるかどうかは分かんないけど、いまやれることがあるならそれを全力でやろうと思いました」と青木。正月休みが明け、1月6日のチームの初練習で氷に乗れた。「早慶戦出場は試合の2日前に決めました。『これが最後なんだし、もう足がどうなってもいいや』って」
アジアリーグでのプレーを断念、公務員に
青木の故郷である長野はスピードスケート王国。スピードの選手だった祖父が大のホッケー好きだったことで、兄の優之介とともに競技を始めた。「長野出身のホッケー選手はそれほど多くなくて、でも同じ中学の先輩に日本代表の上野拓紀さん(現・ひがし北海道クレインズ)がいるんです。僕が子どものころ、上野さんはまだ早稲田の学生で、そのころからエンジのユニフォームにあこがれてました」。青木兄弟はともに埼玉栄高、早稲田でプレーし、ポイントゲッターとして活躍した。
大学を出た後は、最高峰の「アジアリーグ」でプレーするつもりだった。熱心に誘ってくれたチームもあった。しかし昨春に2度目の靭帯のけがを負ったことで、断りの連絡を入れた。「いろんな人に相談しました。『誰もがいける世界じゃない。いけるんだったらいくべきだ』って言ってくれる人が多かったですね。でも、大学2年生のときにけがをしてから、いつも自分の中にけがへの不安がありました。100%やれる自信がないんだったら、いくべきじゃない。最後は自分で決断しました」
「仲間の絆を感じる瞬間が好きでした」
この4月からは兄と同様、長野に戻って公務員になる。地元のチームで趣味としてホッケーを続けるが、勝負をかけて取り組むのは早慶戦が最後だった。「ホッケーをやってきて一番よかったのは、仲間ができたことです。埼玉栄も早稲田も強いチームですけど、日本一というわけじゃない。格上の相手を倒すために結束する、仲間の絆を感じる瞬間が好きでした」
アイスホッケーはけががつきまとう競技だ。青木が試合途中で退場を余儀なくされ、長期間のリハビリと向き合ったのに対し、相手選手は2分間の反則退場で済んだり、反則気味なのにとられなかったケースもある。「自分は運がないと思ったこともあります。でもいま思うのは、実はすごくラッキーな選手だったんじゃないかって。大学でも、高校でも、アイスホッケーを通じてたくさんの仲間ができましたから」
最後の戦いを終えた青木の表情は、いつも以上に穏やかだった。「やれることがあるなら、それを全力でやろう」。そう思い立ってトレーニングを始め、MVPという結果に現れたからか。それとも、「仲間との絆」をきちんと氷の上で実感できたからか。「これで何の後悔もなく卒業できます。やり残したことはありません」
けがの原因になったプレーと相手選手については、最後まで口にしなかった。それもまた、青木孝史朗というホッケーマンの生き方をよく表していた。