アイスホッケー

最後の日本製紙クレインズ戦士、選んだ道に後悔なし

フェイスオフに臨む中島。奥に構える池田、鈴木、松金(左から)も、大学ホッケー界を代表する選手だった

アイスホッケーアジアリーグのプレーオフ決勝ラウンドは3月14日、3戦全勝のサハリン(ロシア)が初優勝して幕を閉じた。そのサハリンの3戦目の相手が、3月いっぱいでの廃部が決まった日本製紙クレインズだ。クレインズは大学のエリート選手を積極的に採用し、2003年の第1回アジアリーグで優勝。昨シーズンまでに4度、アジアチャンピオンに輝いた。かつての大学アイスホッケー界の名選手たちは、クレインズの一員として、どんな気持ちでラストゲームに挑んだのだろうか。

各学年のトップ選手が集まったチーム

アジアリーグには日本、韓国、ロシア東部の計8チームが参加。クレインズの決勝ラウンド第1戦は3月9日、翌10日には第2戦がそれぞれ地元の北海道釧路市であった。私はその2試合に駆けつけた。会場の日本製紙アイスアリーナは満員。市内の人たちはもちろん、全国からも彼らの姿を目に焼き付けようと集まったのだ。

クレインズはもともと十條製紙釧路工場のアイスホッケー部として誕生し、69年の歴史を持つ。旧日本リーグ時代は地元の高校を出た若い選手が主体で上位に定着できなかったが、1993年に十條製紙と山陽国策パルプが合併して社名が日本製紙となったのを機に、「日本製紙クレインズ」としてリスタートした。リーグの国内4チームは企業チームとプロチームが混在。クレインズは一貫して正規雇用だったために大学生の人気が高く、その結果、各年代のトッププレーヤーの集団になった。現在の大学4年生でいえば、現役日本代表でもある中央大4年のDF蓑島圭悟(白樺学園)が、この6月からプレーすることになっていた。クレインズから勧誘を受けることは、その学年のトップ選手として認められた証でもあった。

クレインズは昨年12月、母体の業績不振を理由に廃部を発表した。中央大4年のときにキャプテンとして3冠を達成した3年目のFW中島彰吾(武修館)は、廃部が伝えられた日のことをはっきり覚えている。「今日はチームミーティングがあるから集まってくれ、と言われて、その場にオーナーがいらした。それを見たとき、僕も周りの選手も覚悟を決めたと思います。でも意外とみんな、落ち着いてました。むしろ周りの人の方が『これからどうなるの』って騒いでいたくらいで」。とはいえ、動揺もあったのだろう。廃部発表後の試合は2連敗。その段階でレギュラーリーグ2位だったのが、最終的に4位で日程を終えた。

中島は中央大で力を伸ばし、現在は日本代表の常連になりつつある

大学まで世代ナンバーワンだった選ばれし者たちに訪れた試練。それでもプレーオフに入ると、王子イーグルス(北海道)との第1ラウンドは、初戦で負けてあとのない状況から連勝し、準決勝ラウンドではレギュラーリーグ1位のデミョン(韓国)に3連勝した。迎えた3月9日、試合前の練習ではどの選手からも自然な笑顔が見られた。気持ちをコントロールし、自分がすべきことに集中する。勝つすべを知った彼らだからこそ出せる空気だった。

中島はさも当然といった顔で話した。「プレーオフのあとのことは何も決まってませんし、チームメイト同士で『これからどうしよう』っていう話は当然ありますけど、いまは試合をするしかない。勝たなきゃいけない状況の中で、でも硬くならないように。そこはちゃんとできてると思います」

元選手の父は息子の「とことんやる」姿勢を認めた

中島が大学生だった4年間、関東リーグは「中央・明治」の2強時代だった。中島とキャプテン同士で戦った明治のエースでFWの大津晃介(日光明峰)も、クレインズの選手として最後のときを迎えていた。「廃部報道があるまで、来年も、その次も、当たり前のようにこのチームでホッケーができると思ってました。それが、中途半端なキャリアのまま廃部が決まってしまった。でもいまはできる限りホッケーを続けるつもりです。いつか父親になったときに『好きなものを最後まで追いかけたんだ』と子どもに語りたい」。そう言って、大津は前を向いた。

父の英人さんも栃木県日光市のプロチームであるアイスバックスでDFとして活躍したが、前身の古河電工時代に廃部を経験している。英人さんはアイスバックスでの2シーズンを終えたとき、プロとしてプレーを続けるか、会社に戻るかという選択に迫られ、引退を選んだ。「クレインズの廃部が決まって、父からは『アイスホッケー以外にも人生の道はあるぞ』と言われました。そこから何度も話し合って、いまは『とことんやりきるのも一つの生き方かもしれないな』って、そう言ってくれてます」と大津は話す。

「どんな競技でも、トップリーグには進むべき価値があるはず」と大津(中央、10番)

大津晃介の「晃」は、「日光」の日と光を組み合わせた字だ。弟もアイスバックスでプレーしている大津にとって、日光は思い入れのある土地であり、そこでプロ選手になるのは既定路線だった。「僕を知っている人はみんな、日光でプレーすると思ってたはずです。でも僕は、世代のトップが集まるクレインズでホッケーをしてみたかった。自分がいちばん成長できるのは、このチームだと思ったんです。同世代の選手と一緒にクレインズを強くしたかったし、強くできる確信もあった。いまそれができなくなるのが悔しいですし、同世代の何人かがホッケーをやめることになる状況も、すごく悔しいです」

トップリーグの誇り

中島と大津に共通していたのは、廃部が決まったいまもなお「トップリーグは素晴らしい」と信じていることだった。アイスホッケーは近年、大学のトップ選手が必ずしもアジアリーグを第一志望にしなくなっている。プロチームの誘いを断り、一つ下のカテゴリーのチームを持つ企業に就職したり、競技としてのアイスホッケーに見切りをつけ、仕事に専念するケースが増えている。

そんな状況に対して、中島はこう言った。「トップリーグでプレーするのは、アイスホッケーをやってる人の夢だと思います。夢をかなえるのは誰にでもできることではないし、そこでプレーするのもなかなか経験できることじゃないです。もし現役の学生に誘いがかかったら、トライしてほしい気持ちはあります。廃部にはなりますけど、僕はクレインズに来たことを後悔してないですから」

大津も同様の言葉を口にした。「小さいころからホッケーをやってきて、トップリーグを目指すのをあきらめるなんて考えは僕にはなかった。子どものころは、みんな絶対に目指してたはずなんです。実際トップリーグでプレーしてみて、目指すべき価値があると思いましたし、やりたいことを最後までやりとげる気持ちは、ここに来ないと絶対に味わえない。それを経験することで理解できることもたくさんあると思います。大学まで一つの競技を続けるということは、競技が生活の中心であるということです。もしその競技を続けられる環境であれば、絶対に続けるべきです。どんな競技であれ、トップリーグは進むべき価値がある場所だと思うので」

ホッケーの未来のために

中島、大津以外にも、クレインズには「世代トップ」の選手たちが並ぶ。中央大1年生のときに日本代表に選ばれたFW重野駿佑(釧路江南)は、「トップリーグは間違いなくいいところ。その競技が好きな人間がそれを仕事にする。それは何より幸せなことなんだって伝えていきたいです」と話す。中島、大津の1学年下、中央大3年生のときにリーグ得点王とインカレMVPを獲得したFW鈴木健斗(北海)は「こういう状況だからこそ、いまの大学2年生、3年生にトップリーグに入ってきてほしい。ホッケーの未来のために、自分たちが先頭に立って『サッカーやバスケのようになるんだ』という思いを持って飛び込んできてほしいです」と言った。

父もクレインズのスターだった重野。「最後まで勇敢に戦うのを見て、トップリーグに入ってくる選手がいればうれしい」

今シーズンが4年目で、中島と大津の1学年上にあたるFW池田一騎は、駒大苫小牧高ではキャプテンとしてインターハイ優勝を果たし、早稲田大でもキャプテンを務めた「世代トップ」の一人だ。その池田が語った言葉が示唆に富んでいた。「僕はアイスホッケーを、人から応援される、万人に認められるスポーツにしたい。それに僕自身、まだアイスホッケーをやりきったと思ってないし、自分がどこまでやれるのかを知りたいです。クレインズは廃部になりますけど、自分が本当に満足するまで、これが限界だと感じるまでは、ホッケーをやめる気はありません」

エリート選手が集まるチームの廃部。それでも彼らには、ネガティブな姿勢や発言が最後までなかった。そこにあったのは尽きることのない競技への愛であり、世代のトップを張ってきた者のプライドだ。チームがなくなることと競技をやめることはイコールではなく、置かれた環境も、挑戦しないことの理由にはならない。どこまでやるのか、どこでやめるのかを決めるのは、自分自身。それは競技を超え、ジャンルを超えて、高みを目指す者に共通した思いであり、だからこそ彼らは世代ナンバーワンであったのだ。

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