慶大トレーナー野崎、悪夢の日々を乗り越えて
アイスホッケーの世界でも、早慶戦は人気の一戦だ。昨春の早慶戦では慶大が42年ぶりに勝利。秋の関東リーグ戦でも、慶大は早大から46年ぶりとなる白星を挙げた。冬の早慶戦は4年生の引退試合ということもあり、両校ともにひときわ強い気持ちでぶつかった。結果は7-0で早大の完勝。慶大の野崎大希(4年、桐蔭学園)はこの日、かつて自分がいた氷上ではなく、リンクサイドでトレーナーとして仲間のラストゲームを見守った。
寝耳に水のドクターストップ
野崎は兄と姉の影響で幼少期にアイスホッケーと出会い、慶應のホッケーにあこがれ、1年の浪人生活を経て慶大に合格。慶應義塾體育會スケート部ホッケー部門の門をたたいた。2年生の春、DFとしてプレーしてきた野崎を悲劇が襲った。
新横浜スケートセンターでの深夜練習で転倒。脳しんとうを起こして気を失い、そのまま救急車で横浜労災病院に運ばれた。目覚めた野崎の目に映ったのは、病室の白い天井だった。その後も自分では重症という実感はなく、入院中は復帰後のことばかり考えた。「1年生も入ってきたし、負けてられない」「次の練習ではバックチェックをさらに磨こう」。体調はよく、体にも不安はなく、再びリンクに上がる日が楽しみで仕方なかった。
しかし、退院後に突きつけられた現実は、とうてい受け入れられるものではなかった。医師からの説明はこうだった。「後遺症はなし。運動もOK。アイスホッケーもまったくNOではない。ただ万が一、再び同じような激しい脳しんとうを起こすようなことがあると、命の保証はない。選手としての部への復帰は許可できない」
すべての光が消え、目の前が真っ暗になった。「なぜ自分なのか」「これから自分は何をすればいいのだろう」「仲間とも離れなければならないのか」。野崎は混乱した。
もうアイスホッケーができないと考えれば考えるほど、野崎はまわりの人に相談するのが怖くなり、一人で抱え込んでしまった。部を辞めてほかの競技の部や同好会へ移ることや、勉強に打ち込むことなんかも考えた。しかしどれも、野崎が思い描いていた大学4年間を超えるものには感じられず、退屈な未来に落胆した。
ヘッドコーチからの提案
そんなとき、「どうだ、メシでも行くか」と山中武司ヘッドコーチ(HC)から声がかかった。山中HCは女子日本代表チーム「スマイルジャパン」の前監督でもあり、現在は男子全日本U18も指導している。野崎にしっかりと自分で道を選んで進んでほしいと考え、その一つの提案として、大西功監督との話し合いの中で出てきたトレーナーという選択肢を野崎に伝えた。山中HCにはもちろん、仲間が氷上でプレーする姿を目の前にする野崎のつらさも分かっていた。だから、あくまでも一つの提案として伝えた。
有望なDFである野崎が二度と全力でホッケーができないと知り、チームメイトたちが抱いた喪失感は大きかった。中でも野崎の幼なじみで当時3年生だった安藤直哉(慶應)は大きなショックを受けた。安藤はジュニア時代に野崎と同じチームでプレーし、慶大2年生のときに1年遅れで入部してきた野崎と再会した。「同じ慶應でプレーできると知ったときの喜びは、いまでもはっきりと覚えてます。彼はDFの要として、上級生になったらチームを引っ張る存在になると、みんなが確信してて。それだけの素質とスキルを兼ね備えたプレーヤーでした」。野崎の無念さを、安藤は痛いほど感じていた。そして野崎は2年生の秋、トレーナーとしてチームメイトを支えていく決断をした。
慶大にはしばらくトレーナーがいなかった。野崎は試行錯誤しながら、陸上トレーニングやウエイトトレーニング、氷上練習のアップからクールダウンまでを管理した。トレーナーとして初めて迎えた関東リーグ戦で、慶大は0勝5分9敗の最下位。下位リーグとの入れ替え戦に臨み、かろうじで1部に残留した。野崎は自分が選手として再びプレーしている夢を見て、寝汗をかいたこともあった。
安藤が主将になると、野崎も幹部とのミーティングに参加した。毎週のように新しいトレーニングメニューを考案し、選手は飽きずにトレーニングを積み重ねられたという。安藤が足の大けがを負いながらも戦列に戻れたのは、トレーナーとしての野崎の支えが大きかった。
山中HCは、野崎がトレーナーとして迷っていたとき、かつて所属していた王子製紙イーグルスの小柳利哉トレーナーに引き合わせた。山中HCは言う。「野崎のすごいところは、どんなトレーニングも選手にやらせる前に必ず自分で体験して、その効果を確認するところです。指導を受けると必ずメモを取り、実践してました。日々感謝の言葉を伝えてきましたが、いまこの瞬間も、感謝の気持ちしかないです」
2017年のリーグ戦で慶大は、ビッグ4の明治大、早大、中央大、東洋大(順位は不同)に次ぐ5位になった。さらに18年、春の早慶戦とリーグ戦で早大に勝利を挙げた。トレーナーとしての野崎の取り組みは、実を結んだ。
仲間を支え、仲間に支えられ
野崎が絶望から前を向き、仲間のために目指したトレーナー像は「勝利への道筋を示し、選手を引っ張る存在」だった。選手のコンディションを管理し、試合に送り出すまでが自分に任せられた第一の仕事と捉えていた。最終戦となった早慶戦の選手紹介セレモニー。仲間たちの粋なはからいで、野崎はユニフォームを着て選手たちと一緒に氷上に立った。トレーナーとしての役目を終えた野崎は「本来は自分が支える立場のはずなんですけど、私がみんなに支えてもらってました」と話した。
エースのFW史習成 リック(すう・しゅうせい、4年、駒大苫小牧)も、野崎と同じジュニアチームに所属していた。「彼は誰よりも人のことを考えられる仲間です。選手としてプレーできなくても、勝利に対して選手以上に喜んでくれたことが、僕らの戦うモチベーションになってました。彼をもっともっと勝利の場に連れていきたかったです」。最後の戦いを終えたエースは野崎をたたえ、彼に対する心残りも口にした。
「前に踏み出すこと」。野崎は大学での4年間、そう心がけてきた。今後の長い長い人生でも、野崎は同じスタンスで歩み続ける。