野球

中日の育成1位 名大・松田亘哲の記者会見を見守った闘病中の仲間

松田は野球部やゼミの仲間たちに見守られながら、指名を待った(提供写真以外はすべて撮影・松永早弥香)

10月17日のプロ野球ドラフト会議で、中日ドラゴンズが名古屋大の最速148kmのサウスポー、松田亘哲(ひろあき、4年、江南)を育成選手の1位で指名した。松田は入団の意向を示しており、名大初のプロ野球選手が誕生する。中学まで野球に取り組んでいた松田だが、高校時代はバレー部でリベロ。愛知大学リーグ3部の名大硬式野球部で野球を再開してから、「プロになりたい」という思いを口にしてきた。「松田を見てて『一つのことに本気で取り組めば、夢って本当にかなうもんなんだな』って思いました」。そう話す名大4年生の黒柳寛喜は、キャッチャーとして松田と同時期に名大野球部に入部した一人だった。

左で最速148kmの名大・松田亘哲、高校はバレー部だった男がプロを目指す

中日からの指名に、父は自宅で号泣

名大は「夢に向かって奮闘する松田君を応援したい」という思いから、学内のシンポジオンホールでドラフト会議のパブリックビューイング(PV)を開いた。松田の名前が呼ばれたのは、ドラフト会議開始から約2時間半後だった。

松田はドラフト会議の途中まで、「どこか“視聴者目線”だった」と言う。服部匠監督の携帯電話が鳴り、「(中日からの電話が)きたぞ」と伝えられた。心の準備はできていたつもりだったが、いままでモニター越しに見ていたドラフト会議の会場で自分の名が呼ばれたことに感情が追いつかず、実感がまったく湧かなかったという。「もちろん、待ってたんですけどね」と笑いながら、そのときの心境を口にした。

指名を受けた後、松田(左)は服部監督とがっちり握手をした

松田のもとには7球団から調査書が届いていた。夢をつかめるかもしれないという期待も大きくなってはいたが、チームの2部昇格を目指し、松田は秋のリーグ戦に集中してきた。そして迷うことなく、9月1日にプロ志望届を提出した。

ドラフト会議の前日も当日も、普段通りの生活だったという。実家暮らしの松田は、両親と前日、「明日は昼ぐらいに家を出るよ」と話しただけでドラフト会議の話は一切しなかった。当日も松田が目覚めるとすでに出勤した後だったという。両親は家でドラフト会議の行方を見守っていた。そして息子の名前が呼ばれたとき、母は冷静だった一方で、父は号泣したそうだ。「たぶんそうなるんだろうなと思ってました」と松田。記者会見後、両親にはまず電話で「やったよ」と報告した。

「一日一日が勝負」と、ガンと闘ってきた

今回のPVでは、学生の参加者は野球部員と、松田と同じゼミの人に限られていた。たった一人、特別に参加してたのが前述の黒柳だった。黒柳は1年生の夏にけがを理由に野球部を退部し、いま、ガンと闘っている。闘病生活の中で「一日一日が勝負」と思うようになり、頭に浮かんだのは好きだった野球、そして夢に向かって突き進んでいる松田のことだった。

2016年の春、名大に入ってすぐのオリエンテーションで初めて黒柳は松田に会った。聞けば野球部に入るとのことで、「一緒だね」とすぐに意気投合した。黒柳は中学時代、愛知県内の強豪クラブ「東海チャレンジャーボーイズ」で活躍し、県立半田高校では主将を務めた。黒柳の活躍を目にした名大の服部匠監督は「一緒にやろう」と声をかけていた。黒柳は1年の浪人後に合格。「もっと野球を本気でやりたい」という思いから野球部に入った。

松田に対する第一印象は「野球が大好き」だった。ランニング中も出てくるのは野球の話ばかり。「どういう投げ方をしたらいいのかな?」と、アドバイスを求めてきた。ただ「プロを目指したい」という松田の言葉だけは、スッと入ってこなかった。黒柳自身、ずっと野球をやってきて、そんなに甘いものではないと身に染みていた。しかも松田が高校時代野球をやっていないこともあり「本当に目指せるのか?」と思っていたという。そう思いながらもキャッチャーとして松田のボールを初めて受けたとき、これまで受けてきたボールとぜんぜん感覚が違った。「勢いというか、恐さがありました」と当時を振り返る。

松田のマックスは1年生のときは120kmどまり。4年生の夏前に148kmをマークした

1年生の夏、黒柳に広背筋(こうはいきん)の肉離れが起きる。ボールが投げられなくなった。治る気配がなく「バッティングしかできないなら野球じゃない」と退部を決意。そこからは「将来的に経営に携わりたい」という夢をかなえるために行動し、2年生の冬には1カ月半ほど、アメリカ・シリコンバレーの企業をめぐるツアーに参加した。

そして3年生の3月、大腸ガンのステージ4であるとの宣告を受けた。最初はどういう病気なのかも分からず、楽観的にとらえていたところがあったという。しかし治療が始まり、時間が経つ中で病気について考える時間が増え、「そんな長く生きられないかもしれない」と思うようになったという。そして「一日一日が勝負」と考えるようになった。4年生の前期は治療のために休学。手術を経て現在は体調も安定し、10月開始の後期から復学している。

黒柳の退部後も、松田がぶれることなく、プロの夢を追い続けていることは知っていた。「1年生のときに受けたあのボールがもっと成長してたら、もしかしたらもしかするかもしれない。その瞬間をどうしてもこの目で見たい。その場でその空気を味わいたい」と、今回のPVに参加した。そして松田の名が呼ばれた瞬間、驚きと喜びと安堵から自然と跳び上がった。

道は分かれても、ふたりはつながっている

名大野球部は10月20日、愛知淑徳大との3部リーグ優勝決定戦に臨んだ。黒柳も応援に駆けつけた。4年生は負けたら引退。松田は制球が定まらない。3回には三つのフォアボールがもとで1-2と逆転された。しかし7回、名大は小林研貴(4年、松本深志)のホームランで同点。試合中なのに松田は泣いた。延長10回タイブレーク、名大は1点を勝ち越し、最後は松田が抑えて試合終了。11月2日、2部最下位の名古屋経済大との入れ替え戦に臨むことになった。

緊張の記者会見を終えて。名大野球部の仲間に囲まれ、松田の表情が一気に柔らかくなった

試合後、黒柳は改めて松田に「プロ入りおめでとう」と声をかけ、「松田がナゴヤドームで投げる姿を必ず見に行くよ」と伝えた。松田は最近まで、黒柳の病気のことを詳しくは知らなかった。それでも、1年生の最初から自分を気にかけてくれた黒柳の優しさを忘れはしない。「自分が野球をここまで頑張ってこられたのは、クロの力がとても大きい。活躍できるように、少しでもクロの力になれるように頑張るよ」と返した。

黒柳には夢がある。一つは経営に携わること。「時間を有効活用し、人生を豊かにする」というテーマを掲げ、名大で学びながら新事業を構想している。もう一つは病気で自分と同じような経験をしている人、もしかしたらこれから経験するかもしれない人に向けて、自分の経験を伝えること。その一歩として「Life応援サロン」というサイトを立ち上げ、自分の経験や感じたことを発信している。

黒柳(右)は「素直さと謙虚さ、努力の継続力があったからこそだと思う」と、松田をたたえた(写真は服部匠さん提供)

そして松田はプロ野球の世界へ飛び込んでいく。「野球以外の部分で注目されることが大きかったんですけど、これからは野球で注目されるようにならないといけないので、自分が成長していく姿をみなさんにお見せできればと思ってます」と、その覚悟を口にした。

3年前の夏、松田と黒柳の道は分かれた。それでも、ふたりはつながっている。お互いの存在から力をもらって、夢に向かう「いま」を生きている。強く、強く生きている。

in Additionあわせて読みたい