思うように走れない焦りと苛立ちをかかえて 元青山学院大陸上部・高橋宗司2
連載「私の4years.」の9シリーズ目は、青山学院大学陸上部で箱根駅伝初優勝時のメンバーだった高橋宗司(そうし)さん(26)です。2回目は青学に入学する直前に起きた東日本大震災、そして競技で高橋さんが直面した壁についてです。
入寮してすぐの東日本大震災で姉を失う
宮城県東松島市の実家を出て、青学陸上部の寮に入りました。その1週間後の2011年3月11日、東日本大震災が起きます。早くもホームシックになりかけていたころ、震災で姉を失いました。震災直後に姉から「部屋こんなにちらかった」という写真付きのメールが来ていたため、安心していたのですが、数日後に親からの電話で姉の訃報を聞くことになりました。自分の知らないところで家族が一人亡くなる事実をどう受けて止めていいのか分からなかった、というのが当時の正直な気持ちです。
いろんな方々に「大変だったね」と声をかけてもらいましたが、僕自身は1度も精神的に「大変だな」と思ったことはありません。宮城に帰った際に両親の泣き顔を見たり、直面した体験を聞いたりしていると、僕はショックを受ける資格がないと感じました。震災当時も東京の寮にいたので、家族のように直接被害に遭ったわけではありません。事実として姉を失ってしまいましたが、両親以上に気を落とすのは何か違うなと感じていました。だから東京に戻ってからも自然と気を落とすことなく「僕にできることは誰よりも元気で走ることだ」と思いながら、チームメイトに支えられてすぐ練習に合流できました。
距離を踏む練習で負のサイクルに突入
4月から5000mの記録会に参加するようになりました。実は高校3年生の冬に授業が早く終わるようになって練習をサボったり、顧問の先生とケンカをして練習に行かなかったりと、まったくといっていいほど練習を積めていなかったため、1年生の秋まではベストから30秒ほど遅い記録しか出せませんでした。加えて、高校生のときはトラックで勝つためのスピードを追い求める練習でしたが、箱根駅伝を目指す大学の練習は「20kmを走りきるスタミナづくり」がマストで加わるため、自慢のラストスパートはないに等しくなりました。
日にちが経つにつれて「距離を踏む→スピード練習になると疲労で体が動かない→スピードを出すのに必要な筋肉を鍛えられない」という負のサイクルに陥ってしまいました。1年生のうちは誰しもが経験する道かとは思いますが、部内の練習でランク分けをしても設定タイムが遅いグループに組み込まれ、中学生から常にチームの先頭にいたこともあり「いま自分は実力が真ん中より下だ」という事実に耐えられませんでした。
誰にも認められていない事実が許せなかった
入学してきた時点では、誰も僕になんか期待してませんし、当然の結果なのですが、僕の性格上「誰かに負けた」という事実より「誰にも認められていない」という事実に、異常に抵抗感がありました(笑)。この性格のおかげでモチベーションが途切れず、地獄の夏合宿を乗り切ることができ、秋に5000mで14分18秒を出して高校の自己ベストを9秒短縮します。
ベストを出せたことに特別な理由はなく、単純に合宿のメニューをけがなく走り切れたから。でも長い迷路からやっと抜け出し、自分の存在価値をアピールできたうれしさがありました。「部内で生き残るためにスピードへのこだわりは捨てよう」と、合宿中に割り切れたのもポイントだったかもしれません。この結果で出雲駅伝のメンバー選考の土俵に上がり「テレビの中で走れるかもしれない」という、ある種「ビビる」感覚を初めて味わいます。
出雲と全日本に出場、そして箱根駅伝へ
夏合宿が終わるまで一切チーム内で目立たなかった僕が、出雲駅伝(5区・区間6位、チーム10位)と全日本大学駅伝(4区・区間8位、チーム9位)の二つの駅伝を走りました。「出場すること」が心のどこかで目的になってしまい、とくに全日本大学駅伝のシードを獲得できる6位以内には遠く及ばない走り。各大学の主力級の選手たちと自分が肩を並べたとき、いかに相手にならないかという事実を思い知りました。
駅伝で結果を残せなかったという事実、いまの自分がまったく他校の相手にならないという事実、そして全日本以降徐々に走りが崩れているという認めたくない事実が、箱根駅伝前の12月に僕にのしかかってきました。徐々に調子を上げてくるチームメイトとは対照的に、徐々に走れなくなっているのが分かりました。そんな僕を見て監督は「1年生なんだからお前に責任は求めてない。頑張ってダメならそれでいいじゃないか」と助言してくれましたが、「そうじゃない」というのが本心でした。1年生の僕は「頑張ってダメならそれでいい」と思えるほど大人ではなく、早くも1年目でやってきた「夢だった箱根路を走れるかもしれない」というチャンスを、どんな手を使ってでも逃したくありませんでした。
しかしそれはチームのためでなく、自分本位の目標に過ぎません。焦りのストレスはどう解決したらいいのか分からず、食事をたくさん口に入れてはトイレで吐く、ということを繰り返していました。昔から太りやすい体質だったため、体重には敏感でした。体重計に乗るのが怖いくせに、ついたくさん食べてしまい、あとで後悔して吐く、の繰り返し。走りが思うようになることはなく、最後まで8区のエントリーを競っていた先輩との大事な5km×2本の選考でも、大きく後れをとりました。
その12月26日の夜、例年より少し早めのメンバー発表で、僕の名前が呼ばれることはありませんでした。悔しいという言葉では言い表せない、何かが終わったような感覚でした。精神的にも幼く、チームメイトを応援しようという気持ちにもなれませんでした。その年、青学は総合5位の過去最高順位を残します。素直に喜べないのが正直な気持ちで、僕に残ったのは「悔しい」という事実と、悔しい気持ちを後で味わうかもしれないと分かっていながら、メンバー選考の時期に努力できなかった自分への苛立(いらだ)ちでした。