陸上・駅伝

連載:私の4years.

1日24時間、陸上のことを考えたくはなかった 元 岡山大学・小林祐梨子1

須磨学園高2年のとき、インターハイの1500mで優勝した小林さん

連載「私の4years.」7人目は陸上女子1500mの日本記録保持者である小林祐梨子さん(30)です。2006年、兵庫・須磨学園高3年のときに日本記録を出し、07年4月に豊田自動織機へ入社。社内留学制度で岡山大学理学部へ。実業団側の団体から「勤務実態がない」とされ、選手登録が認められませんでした。つらい思いもしましたが、08年北京オリンピックの女子5000mに出場しました。小林さんが山あり谷ありの人生について、4回に渡って綴(つづ)ります。

小学校の卒業アルバムに「20歳でオリンピックの舞台に」

白か黒かをはっきりさせたいタイプの私は、数字だけで表されるシンプルな陸上競技に魅了されました。単に速さを競うこの競技に、とにかく夢中になりました。過去には1500mの日本記録を樹立したこともありますが、同タイムでの「着差あり」で日本一を逃した苦い経験もあります。自分の成長をものさしのように計れる「走る」という世界が非常に心地よく、自分らしくいられる場所でした。

小学生のとき、兵庫県小野市の大会で3位に入り、表彰を受ける小林さん(中央右下の黄緑色のユニフォーム)。写真には「3位ゲット」の文字(写真は本人提供)

そもそも陸上競技と出会ったのは小学生のときです。1年365日、外で真っ黒になりながら遊びほうけ、たまたま学校代表で兵庫県小野市内の陸上競技大会へ出場したのがきっかけでした。小野市という見渡す限り田んぼの街で育ち、いま振り返ると遊びながらも自然と足を鍛えていたのかもしれません。そんな小、中学生の長距離とされる800mで学校代表に選ばれ、市内で3番に入ったのです。当時の写真にマジックで「3位ゲット」と書いてあるのを見ると、何もとりえもない私にとって、それがこの上ない喜びだったことを物語っています。そして「八年後、二十歳でオリンピックの舞台に立ちたい」と書いた小学校の卒業アルバム。シドニーオリンピックの女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子選手の姿にあこがれを抱き、書いた夢です。いま振り返ると、ノリだけで夢を書き込んだあの卒業アルバムが、大きな一歩を踏み出すきっかけとなっていたように思います。

さて、そんな私は小野市立旭丘中学校で陸上部に入部。北村先生と出会って目標の持ち方を教わり、めきめきと開花しました。走るたびに自己ベストが出るため、気づけば夢中になっていました。そして3年生で中学チャンピオンとなり、全国屈指の駅伝強豪校である須磨学園高校へ入学したのです。
入学後も自己記録を連発し、やればやるほど面白いように結果がついてきました。3年生のときに1500mの日本新記録を出して「スーパー女子高生」と呼んでいただけるようになりました。

2時間の通学時間に勉強を終わらせた高校時代

当時は国立大学を目指す特別進学コースに入っていたため、勉強と陸上で1日が嵐のように目まぐるしく過ぎ去っていきました。ブレない目標に向かって、量より質を求めてトレーニングすれば自ずと結果が出るんだと実感し、勉強も短い時間で効率よく集中するようになりました。数字が大好きな根っからの理系。1日にやるべきことを把握して、パズルのようにはめ込んでいくスタイルでした。家ではできる限り勉強をせず、片道2時間弱かかる電車移動の時間だけですべてを終わらせるやり方も、そこで身につけました。勉強しないでもっと陸上に専念していたら、もっといい結果が出ていたのでは? と思ったことは一度もありません。

高校3年生で日本新記録を出したころの小林さん。野性味あふれる走りが魅力だった(撮影・西畑志朗)

なぜなら私は「文武両道」というかっこいい言葉にあこがれたわけではなく、単純に1日24時間ずっと陸上のことを考えるスタイルが性に合わないからです。そのときそのときで切り替え、陸上のことを忘れる時間がある方が、集中して質の高いトレーニングができていたのです。

そんな私は高校卒業後の進路で大きな決断をしました。それは実業団である豊田自動織機への入社です。そして社内留学制度で岡山大学へ入学という特殊とも思える進路選択をしました。学長から入学の際にかけられた言葉は「特別扱いはしない」でした。もちろんそれを望んでの入学。希望に満ちあふれ、翌年の世界選手権出場、そして2年後の北京五輪に向けて順調に走り出したかのように見えました。しかし、私の絵に描いたように幸せな時間は、長くは続きませんでした。

選手登録を巡る騒動、会社のみなさんは支えてくれた 元 岡山大学・小林祐梨子2

私の4years.

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