大阪での世界選手権を逃し、姉と目指した北京五輪 元 岡山大学・小林祐梨子3
連載「私の4years.」は陸上女子1500mの日本記録保持者である小林祐梨子さん(30)です。2006年、兵庫・須磨学園高3年のときに日本記録を出し、07年4月に豊田自動織機へ入社。同時に社内留学制度で岡山大学理学部へ進みましたが、実業団側の競技団体から選手登録を認められませんでした。連載3回目は登録問題を抱えながら世界選手権や北京オリンピックを目指した時期についてです。
少しの痛みならと過信、大事なレースに負けて言い訳
登録問題を引きずることなく陸上に没頭できたのには理由がありました。この2007年には大阪での世界選手権というビッグイベントが控えていたからです。「実業団選手のあこがれの大会である実業団駅伝には出られなくても、オリンピックに次ぐこの大会には出て、来年の北京オリンピックを見すえたい」という思いに強くかられました。しかも日本での開催ということが、私にとって大きなチャンスだったのです。
世界大会へ出場することが難しいとされている1500mでも、開催国枠で十分に出場できる可能性が広がりました。「ジュニアでの日の丸ではない、アジア大会の日の丸でもない、ほんとの世界大会で日の丸をつけて走れるんじゃないか」という思いが芽生えます。強くなりたい一心で練習を積み重ね、幸か不幸かこれまでけがの経験がなかった私は、少しの痛みぐらいだったら大丈夫という判断をするようになってしまいました。
そして、万全ではない状態で世界選手権代表の選考会を兼ねた日本選手権を迎えます。「勝って当たり前」という日本記録保持者のプライドだけの自分がスタートラインに立っていました。結果は3位。当時は「まさか」と思いましたけど、いま思えば当然の結果ですね。世界選手権の代表をあっさり逃し、頭が真っ白になり、周りも見えない。ゴール後に口にした言葉、それは「かかとが痛い」でした。なんと大切なレース後に史上最悪の言い訳を口にしたのです。思い出すと恥ずかしくなりますが、当時の私は勢いだけで突っ走ってきて、壁にぶつかったときにどう対処していいのか分からなくなっていました。
姉と神戸で二人暮らし、一緒に夢追いかけてくれた
そんな私を変えてくれた人、それが二つ上のお姉ちゃんでした。陸上の経験はない姉ですが、高校時代から私のヘアカットを担当し、悩みごとや恋愛話も相談する大切な存在でした。ちなみに美容師でもない普通の女子大生でした。私は大学の4年間、そんな姉と神戸で二人で暮らし、全面的にサポートしてもらっていたのです。母校の須磨学園高校で朝練習と午後練習をし、週に2回ほど早朝に自宅周辺でやったり、午後練習は岡山大学のグラウンドやその周辺で練習してました。授業の多い日はオフ日にしたり、軽い練習にしたりとストレスのないように対応しました。
姉との二人暮らしを始めてすぐの大事な大会である世界選手権出場は逃しましたが、姉と大阪の会場へ足を運びました。自分がスタートラインに立っていない現実を再認識したとき、悔しさと自分への情けなさでいっぱいになりました。
姉はほんとに自分のすべてを私のサポートに費やしてくれました。マッサージや栄養学などの勉強を始め、「来年の北京オリンピックへ一緒に行くんや」という決意を強く持ってくれたのでした。きっと遊びたい年頃でもあったし、自分自身の悩みもあったと思いますが、プライベートを犠牲にして、私と一緒に夢を追いかけてくれました。私の陸上人生を語る上で、とても大切な存在です。
アメリカで原点に戻り、自分と向き合った
その直後、大学の夏休みを利用し、ほぼ一人で1カ月以上アメリカへ合宿に行く決断をしました。食材の買い出しや練習で使う競技場までは自転車。原点に戻り、自分と向き合う時間に費やしました。練習も言われることをただ素直にやる高校時代の姿勢ではなく、自分の体の仕組みを理解し、考えるようになり、これまでできなかった「休む」という勇気もつけるようにしました。「本気で変わらなあかん」という思いが、そうさせたように思います。アメリカ合宿では単に速くなったというだけでなく、たくさんの人の応援や支えへの感謝、この環境が当たり前ではないんだという気づきをも与えてくれたのです。
そんな大学時代、「小林さんってほんまに大学行ってるの?」。こんな質問をよくされました。実際には4年間、大学を休んだ記憶はほとんどありません。大好きな数学を中心に、高校時代と同じように陸上のことを忘れられる時間が私の原動力でした。試験前や授業で遅くなる日はいつも姉が昼と夜のお弁当を持たせてくれ、練習場所や時間なども臨機応変に考えられるようになりました。さらににどんな結果であろうと、「こんなに暑い中で大変じゃ」と応援してくれるクラスメイトがいつもそばにいてくれました。陸上を知らない仲間からの言葉に、いつも励まされていたように思います。
一つの負けから学んだことが多く、また徐々に生活のリズムもつかめ、車輪が上手く回り出した2008年、オリンピックの代表選考会である日本選手権がやってきました。