いつしか「喜びたい=優勝したい」になってた 元青山学院大陸上部・高橋宗司3
連載「私の4years.」の9シリーズ目は、青山学院大学陸上部で箱根駅伝初優勝時のメンバーだった高橋宗司(そうし)さん(26)です。3回目は、大学2年生のときに経験した日本代表、そしてついに夢がかなって走った箱根駅伝についてです。
「まさか、まさか」の日本代表
箱根駅伝で過去最高の5位に入り、チームとして勢いのある雰囲気は続いていました。でも僕自身はメンバー落ちのショックが残るまま、大学2年生になりました。そして5月、日本ジュニア選手権の10000mにエントリーしたことが、僕の大きな一歩につながりました。
日本ジュニア選手権は世界ジュニア、アジアジュニア選手権代表の選考レースではありますが、代表レベルにほど遠い僕は、練習の一環という気持ちでエントリーしました。早生まれのため、U-20の基準をギリギリ満たしており、10000mに関しては参加選手の中で僕だけが1学年上という状況でした。同世代の有名な選手たちはこぞって5000mにエントリーしていました。30分11秒という自己ベストより30秒近く遅いタイムでしたが、2位になれました。
代表選考など眼中になく、一緒に出た後輩の神野大地(現・セルソース)と、帰り道に「代表になったら笑っちゃうよな」なんて冗談を言い合ってました。数日後、寮のマッサージ機で寝ていたら、原晋監督からアジアジュニアの日本代表になったことを知らされます! ほかの日本代表メンバーは高校時代にインターハイで優勝したような人ばかり。一方で10000mの代表には神野と僕という、無名のふたりが並んでいました。
世界レベルの刺激をもらい「貪欲」を知る
僕の実績で日本代表なんて、もはや「恥ずかしい」に近い感覚でした。何日経っても信じられず、うれしいという感情はなく不安10割でスリランカへ向かいました。食あたりのアクシデントがありながら、最低限の好結果といえる3位でした。1位のインドの選手は世界ジュニアでも入賞したほど速い選手だったので、悔しさは1mmもありませんでした。そもそも、僕がここにいるのがおかしいんだから、と(笑)。
すごい人たちと過ごす日々は、すべてが刺激的でした。種目の壁を越えて競技に対する目線や考え方の違いを感じる瞬間なんてもう一生ないだろうなと思いながら、いろんな選手と話した経験は僕の宝物です。5000mの代表だった(村山)紘太(城西大~旭化成)は中学生のときからの知り合いですが、正真正銘の天才です。彼が前日練習のあとに「鉄のタブレットある?」って聞いてきて、「なんで?」と聞いたら貧血と感じたかららしくて。鉄分のタブレットはすぐに貧血に効果を発揮すると思い込んでいた彼の感覚に「天才ってすげぇな」と衝撃的でした(笑)。
「代表の経験を超える経験をしてみたい、見たことがない景色が見たい」。それはきっと陸上でしかできないと自分の中で悟り、僕に「貪欲」という気持ちが宿りました。
2年の出雲駅伝メンバー落ちで、メンタルが限界に
アジアジュニアの経験を機会に一気に成長、といきたいところでしたが、そう甘くはありませんでした。10人のメンバーにさえ選ばれなかった6月の全日本大学駅伝の関東地区選考会では、まさかの敗退。しかし、どん底を経験したチームは一気にはい上がり、10月の出雲駅伝で初優勝します。この出雲でも、僕はあと1人のところでメンバーに選ばれず、補欠で終わります。合宿中の選考レースで事実上の最終6番手に滑り込みましたが、直前の練習で監督の信頼を得られず、選考落ち。箱根に続き、ここでもあと1人というところでダメで、僕のメンタルは限界でした(笑)。
昨年末の箱根駅伝の選考と違って自分の悪いところが分からず、また来年の箱根もあと1人で落ちるかもしれない。メンバー落ちの悔しさを味わい続けるのが怖い。そんな感覚と隣り合わせの毎日でした。ほかの人よりもっと努力しよう! と思えるほど僕は強い人間ではなく、自分が頑張れる範囲でしか頑張れず、いまよりつらいことを自分に課すのが嫌な、弱い人間です。それは根っからの本性で自分でも分かってたことなので、あきらめました。
ただ、どれだけ走っても痛くならない足と、大会当日までくれば抜群の集中力を発揮できるという長所が自分にあるのは自覚していたので、「毎日気分に上下なく淡々と過ごせば間違いなく成長できる」と、思い込むことにしました。「負けず嫌いをやめる」というのが分かりやすい表現でしょうか。将来待ちうけているであろう悔しさを想像するのが怖かったんです。変な人だなと思われるかもしれませんが、僕のメンタルでは「競争に負けてもいいんだ」という暗示をかけないと、毎日の練習を乗り越えられませんでした。
夢の舞台を走っても満足できない自分に気づく
気がおかしくなりそうなくらいのメンバー落ちの恐怖と毎日闘いながらも、調子は絶好調。一喜一憂することなく冬季練習を乗り越えた成果や、ほかのメンバーのけがなど運も重なりました。僕は8区を走り、区間賞を獲得します。のどから手が出るほど出たいと願った箱根駅伝、少し前まで目標ですらなく夢だった箱根駅伝はまさに夢見心地で、自分の足音が聞こえないほどの歓声を受けたのは、高校生のときにテレビでみた景色そのままでした。
このときの実質区間1位は中央大学の永井秀篤(現・DeNA)でした。チームが5区で棄権したため参考記録扱いになり、区間2位の僕が繰り上がったのです。複雑な心境でした。レース後にFacebookで永井に「なんかゴメン」と送ったら「今度こそ結果が残るレースで勝負しよう」と返事がきて、そこから仲よくなりました。そして2年後に再び区間賞争いをする運命が待ち受けているとは、このときは知る由もありません(笑)。
この世代の青学は出雲駅伝優勝を経験し、間違いなく箱根駅伝優勝を目標に戦いました。その事実がまた、この先のチームを支えてくれることになりました。当時の4年生は、思い返すとどんなときも底抜けに明るく、チームの雰囲気がどん底のときも一番気にかけてくれて、僕が出しゃばっても怒ったりせず、練習でも常に4年生が前にいて、まさに理想のチームだったと思います。それでも箱根で総合8位という事実と、不思議と満足できない感情が自分の中に残りました。高校生のときの目標は「何でもいいからみんなで喜びたい!」という漠然としたものでしたが、いつの間にか「喜びたい=優勝したい」という、とてつもない大きな目標に変わっていました。