箱根は走れなくても、記録会でベストレース ポップライン萩原(もしか設楽)4
連載「私の4years.」の10シリーズ目は、陸上長距離選手の設楽悠太のそっくりさん「もしか設楽」としても活躍中の芸人、ポップライン萩原さん(38)です。4回目は大学ラストイヤーの1年、とくに優勝を目指して臨んだ最後の箱根駅伝についてです。
「お前らの代で優勝したい」と大後さん
コンコン。「入るぞ〜」
神奈川大学陸上部合宿所の1階、監督ルームのすぐ横にある六畳の和室で開かれる学年ミーティング。そこへ監督の大後さんがやってきたのは、箱根駅伝が終わり、4年生が引退した2003年3月でした。このときの議題は次の三つでした。
「初の予選会スタート」
「最上級生」
「チームを作り上げていく立場」
とくに「チームを作り上げていく立場」とは、一体どういうことなのか……。
異常に仲がよく結束の強い僕らの学年。学年ミーティングも時には、競技とはまったく関係のない話で終わったりもしました。でも議題が議題だけに、さすがにこのときの話し合いに関しては少しピリッとしていました。大後さんが訪れたのはそんなタイミングです。監督がこの場に顔を出すのは珍しいことでした。
「お前らの代で優勝したい。力を貸してくれ」
深々と頭を下げられました。と、僕らはバラエティー番組のひな壇に座るガヤ芸人のごとく「ちょっとちょっと〜! 大後さん〜!」と、全員立ち上がって大後さんへ駆け寄りました。そのままワイワイしながらミーティングが終わったような記憶があります。
当時の大後栄治監督は38歳。奇しくもいま、これを書いている僕と同じ年齢です。そう考えると大後さんのすごさをしみじみ感じますが……。要は、選手との距離が近かったです。失礼な言い方かもしれませんが、「頼れる兄貴」という感じの雰囲気でした(笑)。
元々、常にピリピリしてギューッと考え込むような学年ミーティングはやってこなかった上に、「兄貴」の登場。確かに気合いは入ったものの、どこか少し肩の力が抜けた感覚もありました。
「13番目の同期」にもらった刺激
「横のつながり」に関してはそこそこ自信があったので、その雰囲気をそのまま縦につなげていけば、おのずとチームは作れるんじゃないか。言葉には誰もしませんでしたが、そんなチーム作りへの決心が「同期13人」にはありました。連載の2回目に「同期12人」と書いてますが、実はこのとき13人になっていました。13番目の同期は平野隆久(現・高校教諭、陸上部顧問)です。
当時の話ですが、神奈川大学陸上競技部は、推薦入学組からなる駅伝ブロック、一般入学組からなる中長距離ブロックに分かれていました。そして1年に1人、ないしは2年に1人、設定タイムつきのトライアウトを受けて長距離ブロックに入ってくる選手がいました。
高校卒業のタイミングでは推薦枠に入れず、それでも箱根駅伝にあこがれ、あきらめることなく大学進学後に駅伝ブロックに上がってくる選手は、それはもう入学したてのような、キラキラした新鮮な雰囲気をまとっています。走れず腐っていた自分には十分過ぎるほどに強い刺激だったのは、言うまでもありません。
必死でやるうちに消えた原因不明の不調
そんな平野の存在もありつつ、チーム作りへの意識を持ちながら、肝心の競技面ですが……。2年生、3年生と悩まされていた原因不明の「脚に力が入らない症状」は時折顔を出しましたが、練習を途中でやめることはなくなっていました。
当時の練習はA1、A2、B、C、basicと五つのチームに分かれていました。僕は4年生になり、故障中、または故障明けの選手の導入練習が主体のbasicチームのリーダーに任命されていました。「リーダーに任命」というと仰々しいですが、故障歴最長の4年生だったので、自然とそうなっていただけなんです(笑)。
ともあれ、練習のペースメーカーは大事な役割で、設定ペースから遅れてもダメですし、速くてもダメ。1000mのラップはプラスマイナス1秒くらいでまとめないと許されない立場です。basicチームとはいえ、そこは箱根駅伝常連校。1kmあたり3分半程度、フルマラソンで言えば2時間30分前後のペース設定です。毎回、練習のスタート前は緊張感と責任感がかなりあったのを覚えています。
2、3年生のときの練習前は「あの症状が出たらどうしよう……」という緊張感でしたが、4年生では「設定タイムでまとめなきゃ」という気持ちが勝っていたのです。原因不明の症状は確かに出ていました。でも、いま振り返ると、ただ単に「気持ちの問題」だったのではないかとも思えます。
遅すぎた復帰、「箱根走れるかも」とは思えず
そして着実に練習を消化し、1度も参加したことがなかった北海道合宿にも行きました。1年生の合宿で「あれ? 箱根走れるかも」と、無邪気に感じていたころと同じくらいの練習消化率でした。それでも「箱根走れるかも」という思考回路は、そこにはありませんでした。
復帰が遅すぎたのです。
超高校級で入学した者とは違い、4年かけてじっくり走り込み、4年生でつかみ取る形でしか見えていなかった箱根駅伝。4年生でやっと走れるようになった僕は、はっきり「走れない」と理解していました。そして理解できていた分、走れない側の役割に集中できていたんだとも思えます。
ただ、競技をあきらめていたわけではありません。5000m、10000mでの自己ベスト更新を目指し、日々練習に取り組んでいました。現に2003年12月、競技人生最後の日体大記録会。5000mで自己ベストを更新したのです。その最後のレースは、競技人生のベストレースでした。
チームという大きな球体の一部として
矛盾するようですが、このときも含め、心は常に「箱根駅伝」に向かっていってました。言葉にするのは難しいのですが、なんというか……、一個人に注目するのではなく、チームを俯瞰(ふかん)で見て、「箱根駅伝」という大きな目標に向かって、全体がどのくらい大きな球体になれているか、いびつな形ではなくどのくらい丸に近いのか、そして強い衝撃にも耐えられるくらい頑丈なのか。
抽象的で申し訳ないですが、自分も確実にその球体の一部として存在していた。そんな感じです。そして、神奈川大学という球体はこの年、限りなく丸に近かったとも思えます。
箱根駅伝にあこがれ、目指し、挫折し、それでもなんとか復帰、走れない覚悟も生まれて臨んだ大学ラストの第80回箱根駅伝。大きな宿題だった予選会は3位で通過し、本戦に挑みました。
最後の箱根は9区島田の付き添い
迎えた2004年1月3日の復路、僕は9区を走る島田健一郎(現・UNIQLO女子陸上部コーチ)の付き添いをしていました。島田は前回大会の9区を区間5位で走っていただけに落ち着いていて、異常な仲のよさの集大成でもあるかのように、和やかムードで中継所での時間を過ごしました。
「いってくるわ〜」
軽い感じのノリで、右手の拳をこちらに向け、沿道の大声援に包まれながら襷(たすき)を受け取り、颯爽(さっそう)と走り去っていく後ろ姿に、「カッコいいな〜」と、ちょっとだけ思ったのを覚えています。肝心の順位はというと、9区の島田に襷が渡った時点で4位。3位法政と2分1秒、2位東海と3分54秒、1位駒澤と7分22秒の差。島田は区間3位の快走で、4位をキープ。最終10区に襷をつなぎます。
アンカーは佐藤健太。佐藤は、まさに自分が目指した形を体現した同期でした。コツコツ練習を積み重ね、4年目の集大成として、神大の特徴でもある「4年生アンカー」を任された選手。もし自分が箱根駅伝を走っていたら、こうだったのではないかなという、自分を見ているかのような存在でした。
3位の亜細亜と7秒、2位の東海と1分54秒、1位の駒澤とは7分15秒差。優勝は見えないにしても、2位は現実味のある襷リレーとなりました。僕は期待に胸を躍らせながら、大手町のゴールに急ぎました。
失速したアンカーの同期と一緒に涙
1位の駒澤が大手町のゴールに飛び込み、歓喜の渦に包まれるなか、次の走者がプラウドブルーのユニフォームではないかと人混みをかき分け、首を目一杯伸ばして、ワクワクしながら最後の直線の先に目を凝らします。しかし目に入ってくる色は水色、緑色、オレンジ色……。
やっと見えたプラウドブルーは8位。佐藤は脱水症状でした。ゴールの瞬間から泣いていました。崩れ落ち「ごめん! ごめん! ごめん!」。そんな佐藤に「大丈夫! 大丈夫だよ! よく頑張った!」と必死に声をかける僕たち同期。いま冷静に振り返ると全然大丈夫じゃないのですが、このときは一緒に泣きながら佐藤を抱えてあげていたのを覚えています。
僕ら同期は、毎年必ず1月3日の夜に集まってます。4年生のときの出来事は完全にネタになっていて、お通しと乾杯のビールが来る前に、まずこの話で一花咲かせます。卒業後数年して、いろいろと当時の状況が分かっていくのですが、佐藤が監督車の大後さんからの「水いるか?」を1回断ったというのも判明。大ブーイングと笑いに包まれる同期会です(笑)。
そんなこんなで、本来なら「何分何秒、順位は何位」と極めてハッキリと結果が見える陸上競技の世界で、最後の箱根駅伝は「本当は2位か3位だったんじゃね?」という極めて曖昧(あいまい)な解釈をして、終わっていきました。