真面目にふざけながら、生涯走り続けたい ポップライン萩原(もしか設楽)5完
連載「私の4years.」の10シリーズ目は、陸上長距離選手の設楽悠太のそっくりさん「もしか設楽」としても活躍中の芸人、ポップライン萩原さん(38)です。最終回は、萩原さんが神奈川大を卒業してから歩んだ道についてです。
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「ゆうた! ゆうた! ゆうた! 設楽悠太! 日本新記録更新!!」
2018年の東京マラソンで16年ぶりに男子マラソンの日本記録が更新されたこのとき、友人の応援に駆けつけていた僕は、ラスト10kmポイント、増上寺が目の前にある日比谷通りにいました。
「よし、俳優になろう」
時は2004年3月。神奈川大学卒業を間近に控え、中学から始めた陸上競技は「10年」というキリのいいところでもあり、キッパリと引退を決意。一般企業に就職する者、実業団で競技を続ける者がいるなか、(監督の)大後(栄治)さんとの進路相談で「役者の道に進みます」と伝えました。ビックリされながらも「やるからにはあきらめるなよ!」と、温かく送り出して頂きました。
映画の影響で、小学校のころの夢は「俳優」。しかし陸上競技に夢中になっていくうちに、完全に忘れ去ってました。最後の箱根駅伝が終わり、将来のことを考える余裕が出てきたとき、急にかつての夢が呼び起こされてきました。
「よし、俳優になろう」。もともと強いあこがれを抱いていた職業への迷いはなく、すぐに決心していました。
箱根駅伝に出るのと同じくらいか、もしかしたらそれ以上に大変な道です。でも一つ明確に違うのは、4回のチャンスしかない箱根駅伝に比べると、あきらめなければ夢は叶(かな)いそうだ、ということ(笑)。オーディション雑誌を買い漁り、たくさんの映画やテレビのオーディションに参加し続け、大学を卒業した年の秋、とある芸能プロダクションに所属できることになりました。
お笑い絶頂期、芸人への転向を決意
ごはんが用意されていたり、知らない所で親が寮費を払ってくれていたり、規則正しい生活を自然と送っていたり……。「大学までどんだけ恵まれた環境で暮らしてたんだよ俺」と身に染みて感じながら、バイトで食いつなぐ生活が2年続いたころ。当時絶頂期を迎えていたM-1グランプリに感化され、お笑い芸人への転向を決意します。
売れている芸人さんが、映画やドラマなどの役者業をしている姿を目にしていくうちに、「芸人で売れてから役者になる方が長続きしそうだ」と判断したのもあります。当時を振り返ると「完全に芸人をナメていた」のひとことしかありませんが……。
2006年10月、お笑い芸人養成所・ワタナベコメディスクールに5期生として入所。1年間の養成所時代を経て、2007年10月に芸人としてデビューします。当時は「Comingすーん(カミングスーン)」というコンビ名で活動。しかし思うような結果は出ず、いつまで経っても鳴かず飛ばず。2012年1月に解散しました。
運命的な出会いでトリオ「ポップライン」誕生
コンビからピンになるというのはとてもつらく、いわば一からのスタートです。新たな相方もなかなか見つからず、芸人として何も活動ができない日々が半年近く続いていたころ、運命的な出会いがありました。正確に言うと、運命的な出会いは、すでにしていました。
大学卒業後から昨年まで続けていた居酒屋バイト。そこの後輩に、現在の相方である竹本カズキがいました。竹本も自分と同じく、東京NSCという吉本興業のお笑い芸人養成所の15期生として入所、1年間の養成所時代を経てデビューしていたのですが、自分と同時期にコンビを解散していました。
そしてもう1人、スクールの同期で家も近かった「83幕府」のヤマサキヨシヤという男がいました。当時のアンダーグラウンドの芸人界ではそこそこ名が通っていて、キングオブコントの準決勝に唯一のフリー芸人としての進出を果たしていましたが、彼のコンビも自分と同時期に解散したのです。
この2人を誘い、現在のコンビ名でもある「ポップライン」として、2012年6月にトリオ活動がスタートしました。
トリオとしての「ポップライン」は、そこそこの結果を出し続けます。組んで1カ月後に臨んだキングオブコントの予選で準々決勝進出、フリーの芸人が集まるバトルライブでも1位を獲得。お笑い芸人部門が新設されて間もなかったオスカープロモーションへの所属も決まりました。
そして毎月あるオスカーライブでも上位を獲得することが続き、所属1年目にして年間チャンピオンに輝きました。ヤマサキはドラマ出演を果たし、竹本はCM出演。自分はとくに何もなかったのですが……(笑)。このまま第2の「東京03」になるのも夢ではないと思える活動をしていたところに、転機が訪れました。
1人脱退でピンチ、「マラソン芸人」の道へ
ネタを考える役だったヤマサキが、結婚を機に脱退。事実上の解散でもありましたが、僕と竹本は芸人を続けることを選択。コンビとしての「ポップライン」がスタートしました。しかしクオリティーの高いネタを作る担当が抜け、ポンコツ2人が残った状態でした(笑)。
「ネタがダメなら何か特技を見つけよう」。ブームも下火で、飽和状態のお笑い界。その中でも特技を持った芸人が目立つようになり、自分たちもなんとか特技を探そうと必死でした。しかし一朝一夕で考えたものが飛び抜けた特技になるはずもなく、完全に行き詰まっていた最中に、竹本が言ったのです。
「そういや萩さん、走るの速くね?」
その言葉で、自分が昔、真剣に陸上競技に取り組んでいたのを思い出します。もう絶対に走ることはないと思っていましたし、引退してから10年以上の月日が流れていたので、「いまさら走っても……」という気持ちでした。でも特技がないよりはマシ。事務所に掛け合い、マラソン大会のゲストランナーとして10kmの部に出場するチャンスをいただきました。
結果は41分6秒。中学から10年間培った長距離への耐性はゼロにはなっていませんでした。そんな経緯で2017年、現役引退から13年の時を経て「マラソン芸人」として走り出したのです。
悔しくても続けた、ウケないマラソンネタ
マラソン芸人になってから、「マラソン×笑い」がものすごく難しいものだと気づかされます。ライブでマラソンに特化したネタをやっても、まったくウケません。野球やサッカーなどのメジャースポーツをネタにすると、お客さんは「あるある」と理解してくれますが、マラソンの場合は「なしなし」になります。
例えば、渋滞している車のナビで5km進むのに1時間かかると表示が出たとき、「走った方が速い」と考えてしまう、といったランナーあるあるをネタにしたとしても、笑いにはつながりません。
そもそも普段から走っていない人は距離の感覚がないので、5kmを何分で走れるか検討もつきませんし、さらにいえば1kmがどの程度の距離なのかも検討がついていません。そんな人たちを相手にいくらマラソンネタを披露しても、お笑いライブではなく、講演会みたいになってしまうのです。
「悔しい」。笑いが取れないことへの悔しさではなく、自分が青春時代の10年間を費やしてきたスポーツが、ここまで認知度が低く、地味なスポーツだったんだと気付かされたという「伝わらない悔しさ」でした。
そうは言うものの、走りに関して芸人で飛び抜けていたのは、猫ひろしさんただ一人。僕は陸上をちゃんとやっていたので、ブランクを安易に考えたりしてはいませんでしたが、何万分の1を争うネタ勝負の世界と比べれば、「マラソン芸人」として突き抜ければなんとかなる、という見通しは明るく思えました。
たくさんの芸人が夢をあきらめ、ドロップアウトしていく姿を見てきていたので「辞めないため」、「芸人として生きていくため」、ひたすら1年間、伝わりづらいマラソンネタを相方と作り続けていきました。
運命の瞬間、「乗っかるしかない」
そして2018年2月25日、運命の瞬間が訪れます。
「設楽悠太選手16年ぶり日本記録更新」
「報奨金として1億円獲得」
設楽悠太選手。僕は「ご本人様」と呼ばせていただいているのですが、ご本人様はちょうど10歳下。卒業して10年近く経った1月2日の箱根駅伝、「神大同期グループLINE」の騒がしさで目を覚ましました。
未読件数の多さに何事かと思って携帯を見ると「萩原に激似が走ってるw」「拓也、東洋入ったの?」「萩原、箱根お疲れ様!」……。
そうです、誰よりも早く神大時代の同期は「ご本人様」と萩原拓也が似てることに気づいていました。その後も、「ご本人様」が箱根駅伝や世界陸上、オリンピックなどで活躍するたびに「設楽に似てるイジリ」で同期内は大いに盛り上がっていました。
似てると言われていた設楽選手の活躍、マラソン芸人としての陸上界への復帰……。言葉を選ばないで言わせてもらえば、「これは乗っかるしかない」でした。
大きなチャンスの予感を感じ、増上寺前で友人の応援も忘れ、無我夢中になってネットで白のランシャツランパンセットを購入していました。
そして2018年3月1日から本格的に設楽悠太選手そっくり芸人「もしか設楽」としての活動がスタート。設楽選手のそっくりさんだけあり、ありがたいことに新聞や雑誌、WebやSNSなど、各方面のメディアで扱っていただきました。
その影響から、陸上競技に取り組んでいる中高生や箱根を目指している大学生、日本を代表する実業団選手、生涯スポーツとしてマラソンを楽しむ市民ランナーの方々に、ジワジワと認知度が広がってきているのを実感しています。
生涯走り続けたい
たまたま陸上競技に出会った中学時代、開花した高校時代、大きな挫折を経験した大学時代。たくさんの経験をさせてくれた10年間の陸上生活。そして一歩も走っていない芸人生活に訪れた、忘れてさえいた陸上との再会。切っても切れない関係だなと思いますし、10年間やっててよかったとも思えます。
なんだかこのまま書き綴(つづ)っていくと、あたかも大成功した超有名人のサクセスストーリーのようになりそうですが(笑)、実際の僕は、もちろんそうではありません。
まだまだ「マラソン×お笑い」の形を模索していて、「ご本人様」の姿形に寄せるべく、同じ着用品を買い求め、彼がヴェイパーフライの新色を履けば、同じ色を買いに走り、彼がランニンググローブを新調していれば同じものを購入するなど、必死にしがみついているモノマネ芸人です(笑)。
それでも僕は僕なりに、これからも夢を追い続け、真面目にふざけ、そして文字通り、生涯走り続けていきたいと思っています。
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最後に、ここまでの連載を読んでいただいた読者の方々。華々しく箱根を走った選手ではなく、走れなかった選手であるにも関わらず、最後まで読んでくださって本当にありがとうございます。
かなり過去の話ですが、青春時代のかけがえのないエピソード、仲間たちについて綴る機会を頂いた4years.編集部のみなさま、ありがとうございます。
そしてみなさん、これからも応援よろしくお願いします! レッツランニング!
ポップライン萩原(もしか設楽)