大学陸上・駅伝

連載:私の4years.

立命館大学での十倉コーチとの出会い、芽生える世界への意識 加納由理・2

私の4years.
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2年時の全日本大学女子駅伝、右から3番目が筆者(写真はすべて本人提供)

連載「私の4years.」11人目は、元マラソン日本代表の加納由理さん(41)です。兵庫県出身の加納さんは名門・須磨学園高校から立命館大学に進み、実業団でも長く活躍。2009年世界陸上ベルリン大会では女子マラソン代表に選出、7位に入賞しました。5回連載の2回目は、加納さんが立命館大学に進んでからの話です。

走るのが楽しいから始めた陸上、不完全燃焼だった高校時代 加納由理1

初のインカレ、未知の10000mで優勝

1997年に立命館大学に入学。一息つくことのないまま、4月頭の京都インカレの1500mを走り、4分30秒くらいで自己新を出して優勝しました。専門外の種目でしたが、高校と違って大学では幸先の良いスタートを切れました。

そして、5月の関西インカレでは5000mと10000mにエントリーされます。入学後1カ月ほどで未知の世界の種目である10000mにチャレンジすることになったのです。実はこの時、どの種目を走るかなどの状況がよくわかっていないままでした。結果、5000mは16分4秒の自己新で2位、10000mは33分40秒くらいで優勝しました。

5000mは狙いどおりでしたが、10000mはペース配分がわからないので前についていって、「もう大丈夫そうだな」といけそうなところで前に出たら、そのまま勝ってしまった感じ。監督やコーチ、先輩たちは「なんだ、この1年生」みたいな感じでめちゃくちゃ喜んでくれたのを覚えています。

大学2年時、チームメイトと。この頃は今のような寮もなく、各自で考えて練習するところが大きかったです

高校時代はとにかく駅伝第一だったので、たとえインターハイであっても、学校対抗の総合得点を気にしているような学校ではなかったのです。結果の先に得点が多ければ良い、といった雰囲気でした。だから入学したての私には、地区インカレで優勝することの価値がよくわかっていませんでした。

それから高校までは顧問の先生の指導を一方的に聞くだけだったので、選手で行うミーティングもすごく新鮮でした。自分たちの専門だけ頑張るのでなく、陸上部全体で力を合わせて結果を求めていく、今までに経験したことのない陸上競技の面白さを知ることになったのです。

初めての一人暮らしで知る自己管理の難しさ

高校まで過ごした実家の高砂を離れ、私は大学の近くの京都で下宿生活をはじめました。
実家を離れることは初めてで、1週間くらいでホームシックになるかと思いきや、全くそんなことはありませんでした。寂しいと感じたのは、引っ越しを手伝ってくれた母が家に戻った時、「いよいよ一人暮らしが始まるんだな」と思った時の一瞬だけでした(笑)。

高校を卒業するまで、一切家のことはやってきませんでした。唯一やっていた事は、合宿時に自分の使ったものを洗濯するくらいです。しかし、貪欲に強くなりたいと思った私。母が何を作ってくれていたとか、どういう感じで料理をしていたのかを覚えていたので、記憶をたどって、見よう見まねで料理を作って、体調管理をしていました。

しかし、順調に管理できていたのは夏あたりまで……。

夏過ぎたあたりから、もともと蓄えやすい体質であるのと、成長期であるのとも合わさって身体が絞れなくなってきたのです。多分、女子選手の多くがこの苦しみを経験しているのではないかと思います。

大学2年の時。だんだんチームの雰囲気も変わってきました

私は、身体を絞りたい時はかなり気合入れて食事管理しないと落ちなかったので、時期を決めて取り組んでいました。気合いを入れてウエイトコントロールに挑んでいる時は苦しかったです。誘惑に負けたことでの「一瞬の至福」と「強くなること」、どっちを取るんだ? と、自分との戦いです。とはいえ、冬場はトラックシーズンに比べると2kgくらい重い体重で走っていました。

今思うと、この時期に絞る時とそれ以外というメリハリをつけられたことで、身体に余裕ができて長く競技を続けられたのかなと感じています。

十倉コーチとの出会い

2年生の春に十倉みゆきコーチが就任されました。直前までは実業団・ダイハツで選手として走られていました。就任された頃は選手を見るのも初めてで、練習からレース選びまで絶対に「これ」というのがなかったので、お互いに手探り状態でした。

十倉コーチは意思をしっかり持っている選手には、走力のレベルに関係なく、ちゃんと向き合ってくれるコーチでした。指導を受けるというよりも、結果を出すために共同作業をしている感じ。指導者とこんなにコミュニケーションを取るのははじめてでしたが、自分の目標に対して自分自身と向き合って、まっすぐ向かって行けたのはこの時がはじめてでした。

3年時の関西学生対校女子駅伝では2位に

練習メニューを出したり、コメントでのフォローはするけど、最終的には自分で決めるということを徹底的に叩き込まれたのはこの時期です。体重管理に関してもほぼ何も言われたことがなかったので、私に任せてくれていたのだと思います。

私が「世界を見据えて戦うような選手になりたい」と思ったのも、十倉コーチに指導してもらったことがきっかけでした。

強くなるチームへの変化

長距離なら駅伝でのチーム作りが大切なのは、当然のこと。しかし、1年生の頃の私は「駅伝をどう走りたいか」がぼやけていました。初めての全日本大学女子駅伝は1区5位、チーム13位。「チームのエースだから」と1区を走ったけれど、いまいち自分の役割がわかっていませんでした。

大学2年時の全日本大学女子駅伝、スタート前。エースとして4年間駅伝を走りました

2年生になってからは、力のある新入生がごっそり入ってきたことと十倉コーチの就任が重なり、一気に「駅伝で上位に入るぞ!」というムードが高まってきました。しかしその頃は朝練集合もなければ、寮もなかった時代です。20歳そこらの女の子に「管理しないから、競技はしっかりやりなさい」というのは無理な状況でした。

立命館大学も、今となっては毎年全日本大学女子駅伝で優勝候補に挙げられる学校ですが、私達の頃はそうではなく、強制的に朝練に来させるようなことは控えられていました。私は強くなりたいという思いもあり、十倉コーチと2人だけの朝練をしていました。これは3年の途中まで続きました。

2年生の全日本で4位に入れた頃から少しずつ、チームの状況が変わってきました。「自分たちでも全国優勝できるのではないか」という気持ちが芽生えはじめたのです。

急激に変わったという感じではないのですが、1つ下の学年が「仲良しクラブ」だった状態から、自分自身の得意とするポジションを自分たちで考えて動きだしたのも大きかったです。

結果的には、全日本大学女子駅伝は1年13位、2年4位、3年3位、4年2位。在校時に優勝はできませんでしたが、駅伝を通してチームが変わっていくことを経験できたこと、そしてその目標を後輩達が引き継ぎ、卒業から3年後に優勝してくれたことには感謝しています。

初の日本代表で知った世界、感じたチームの成長 加納由理・3

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