初の日本代表で知った世界、感じたチームの成長 加納由理・3
連載「私の4years.」11人目は、元マラソン日本代表の加納由理さん(41)です。兵庫県出身の加納さんは名門・須磨学園高校から立命館大学に進み、実業団でも長く活躍。2009年世界陸上ベルリン大会では女子マラソン代表に選出、7位に入賞しました。5回連載の3回目は、初の日本代表経験と大学ラストイヤーのけが、チームの成長についてです。
「前で走る」ことを意識し代表獲得
大学3年生のとき、学生のオリンピックであるユニバーシアードの日本代表に選ばれました。大学入学当初からユニバーシアードを目標にしていたのではなく、一つひとつ目標をクリアしていくことで「日本代表」が見えてきたという感じです。
代表になるためには、学生種目別選手権の5000mで1位か2位になることが条件でした。当時、イギリスのポーラ・ラドクリフ選手に憧れていた私。彼女と同じように、先頭で引っ張るレーススタイルを意識していました。
レース前はかなり緊張したのは覚えています。でも誰かの後ろを走るというイメージがなかったので、スタート直後から飛ばして終始単独走を貫いて、15分44秒台で優勝。代表に選ばれました。2位は、その10年後にベルリン世界選手権で一緒にマラソン代表になった赤羽有紀子さん(現・城西大学女子駅伝部コーチ)でした。
初の海外遠征で感じた「勝つ」ことの難しさ
1999年、スペインのパルママヨロカ島で開催されたユニバーシアード。私は5000mと10000mに代表として選ばれました。初めての日本代表、そして初めての海外遠征でした。約3週間の遠征は、初海外の私にとってとても調整が難しかったです。時差、食事、長時間移動、慣れない生活などで、レースの本番を迎えるときには疲労困憊(こんぱい)でした。
とはいえ、そういったところは不安になったりネガティブになるのがめんどくさくて、「なんとかなるでしょう」とか「まあ、走れるでしょう」とか思ってしまう楽観的なところもありました。
初日の10000mは金メダルをとるつもりでスタートしましが、独走も8000mまで。33分16秒で銀メダルに終わりました。振り返ると、どんなレースでも自分のスタイルを貫くことは大切ですが、自分のレーススタイルが通用しないこともあるんだなと、学びのレースになりました。改めて、勝つことの難しさを実感しました。
調子が戻らない中でもチームとして感じた手応え
ユニバーシアード後は、疲労が抜けない状態が続きました。駅伝へ向けて最後の踏ん張りどころの夏合宿は、出された練習をこなすだけで精一杯でした。この合宿は正直、むちゃくちゃきつかったです。でも私が弱い部分を見せてしまうと皆を不安にさせてしまうので、できるだけ平気に振る舞っていました。
9月の日本インカレは、疲労がまだ回復しておらず、帳尻合わせの練習で挑みました。10000mで優勝はしたものの、本来の走りとは程遠い走りになりました。
11月の全日本大学女子駅伝の頃も調子が戻せておらず、1区でトップと20秒近く開けられ、自分の役割が果たせず区間3位に終わりました。でもチームメイトが踏ん張ってくれたので、立命館大学はこれまでの最高順位4位を上回り3位に入りました。
優勝にはまだ遠い。
けど、一歩一歩着実に優勝に近づいているな。
次の年に向けての収穫を得ることができたことを感じました。
主将なのにけがで走れず感じる焦り
私自信は、調子が戻りきらないまま11月の駅伝までは走っていたのですが、12月に入り、左足首がシンスプリント(脛骨過労性骨膜炎)になってしまいました。
長距離は、11月の駅伝が終わってもオフはなく、1月の都道府県対抗女子駅伝へと続きます。しかし私は十倉コーチと相談し、けがを早く治すことを含め、長めの休養という形で3月まではレースを入れないことにしました。
これまで何ヵ月も走らない経験がなかったので、「長期休暇」といいつつも当然焦りがありました。気持ちの上では、「早く治して4月からはなにがなんでも必ずレースに復帰する」と思っていました。
しかし、私の焦りがけがを長引かせてしまい、キャプテンとして臨む最後の関西インカレは選手として走れませんでした。最終学年で自分の役割は果たせなかったものの、下級生が頑張ってくれ、それぞれの種目で自己新や上位に入ってくれる選手がたくさん出てくれました。
この怪我がチームを大きくしてくれた。そんな感じがしました。
日本インカレで復帰、調子が上向きに
けがからの復帰レースは大学4年の9月、日本インカレになりました。レースは10ヶ月ぶりで、種目は10000m1本に絞りました。「確実に走って優勝する」という目標です。
レースのことは今でもはっきり覚えています。スタート直後から飛び出したのは良いものの、激しい土砂降りの雨になりました。その時の気持ちは「えええ、何だこの雨、落ち着け落ち着け」という感じ。
土砂降りの雨は4000mまで続きました。そんな条件の中でも着実に1000m3分20秒を守り切り、33分20秒で優勝しました。
その1ヶ月後の日本選手権では、32分32秒で8位に入賞。同時期の5000mでも15分50秒あたりまで戻せていたので、最後の大学女子駅伝に向けてのモチベーションは順調に上がってきました。レースを踏みながら調子を戻している感じが良かったことを覚えています。
最後の駅伝で感じたチームの成長
大学4年の全日本大学女子駅伝を迎えた頃、チームはこれまでの中で最高の状態だったと思います。結果は、最後のトラック勝負まで持ち込みましたが、2位でした。私個人としては、1区区間3位。トップから20秒近く遅れたので、エースの役割は果たせませんでした。
優勝できなかった理由は、チーム全員が駅伝での全国大会での優勝経験がなかったこと。つまり、優勝する時のチームの雰囲気や、優勝する瞬間、優勝してどうなっていたいなどのイメージができていなかったことだと思います。
でも、3年前の朝練に来る、来ないと言っていた時期から、短期間で優勝の見えるところまで来れたことは自分たちの自信にしていいと思いました。
そして、私の「駅伝で勝ちたい」という思いは、実業団まで持ち越されることになりました。