大学陸上・駅伝

連載:私の4years.

原因不明の不調と監督からの言葉 元神奈川大陸上部・ポップライン萩原(もしか設楽)3

私の4years.
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2年生のとき、同期と。左から佐藤健太、筆者、吉村尚悟(写真はすべて本人提供)

連載「私の4years.」の10シリーズ目は、陸上長距離選手の設楽悠太のそっくりさん「もしか設楽」としても活躍中の芸人、ポップライン萩原さん(38)です。3回目は、突如襲った「ぬけぬけ病」のような症状に2年以上苦しんだことについてです。

距離を踏む神大の洗礼 元神奈川大陸上部・ポップライン萩原(もしか設楽)2

突然訪れた足の違和感

「あれ? あれ?? カクンてなる……」

最初に訪れた異変から、ただごとじゃないと感じたのを覚えています。

神奈川大学駅伝部の一員になり、箱根駅伝に向かっていく自覚も芽生え、1年目の夏合宿も上々の出来で終えた9月の日体大記録会。右足になんとも表現できない違和感を覚えたのは、記録会前の最後のポイント練習でした。

いまそのときの体の状態を思い出し、症状を考えてみると、陸上界でたまにニュースになっている「ぬけぬけ病」だったのではないか、と思います。

ですが、たまに耳にするその症状。「箱根駅伝を走る名ランナー」がなるものだと勝手に分析していて、自分はそれに当てはまりません。卒業して十数年経ったいま、冷静に振り返って「もしかしたらそうだったのでは?」とやっと思うくらいで、本当に何が起こっていたのかは定かではありません。

そしてこの症状が始まってから、苦しい苦しい走れない時期が始まります。

足は痛くない、でも走れない

「走れない=人間失格」。足が治る見通しが立たない時期は本当につらいもので、大袈裟ではなく当時の自分は本当にこう考えていました。走れないことにより、どんどん増していく走りたい欲求、周りが強くなっていくのを見る焦り、自分の存在がチームに迷惑をかけているんじゃないかという不安の増幅……。

練習についていけない、自分はここにいる意味があるのか? 不安ばかりが募りました(写真は回復後、4年夏の合宿)

もちろん治すために、色々な所へ治療に通いました。ただ、治療に行っても症状をしっかりと説明できないのです。どこかが明確に痛いわけじゃなく、走っている最中にだけ訪れる違和感を言葉で説明するのはものすごく大変。どこに行っても診断結果は違い、自分でうまく説明できていないのもありましたが、ピンと来る診断結果は一度もありませんでした。そしてそのうち、治療に行っても意味がないんじゃないかと思うようになりました。

先にも書いたように、「どこかが明確に痛い」わけではないので、故障と言えば故障なのですが、走ろうと思えば走れたのです。

なので、当時どんな状況だったかというと

そろそろ大丈夫かな〜と意を決して練習参加するも途中で離脱。

そして怖くなって1、2カ月走らない。

その間、特にどこも痛くないので治療には行かない。

そろそろ大丈夫かな〜と練習に参加するも途中で離脱。

そして1、2カ月走らない。

治療行かない。

そろそろ〜……。

横にツッコミが立ってたら、「何してんだよ!!!」というキツめのツッコミで、結構な量の笑いが取れそうなボケみたいなループを送っていました。

たぶん当時のチームメイトは「え? 何が原因で走ってないの?」と感じていたと思います。同期にも厳しめの言葉を言われることもありました。走らない状態で寮にいるのは、毎日気まずいの一言。練習の話題にも入れず、みんなが練習している間、故障者組は集まってグラウンドの隅っこで黙々と補強に取り組む、という状況でした。

走れない理由が原因不明のまま、気付けば入学して2回目の箱根駅伝を迎えていました。

チームは箱根往路優勝、そこで固めた決意

2年生で迎えた第78回箱根駅伝、神奈川大学は往路優勝に輝きます。
その往路メンバーが
1区、飯島智志さん(4年)
2区、原田恵章さん(3年)
3区、下里和義(2年)
4区、島田健一郎(2年)
5区、吉村尚悟(2年)

そうです。なんと同期が3人も走り往路優勝に貢献。レース展開も、5区で吉村が駒澤大学をかわし、逆転の往路優勝という、なんとも爽快な勝ち方でした。

現在の箱根駅伝でもあるように、ポイント毎に前後との差を伝えたり、給水要員だったりと、僕もサポートメンバーとしてその瞬間を見ていました。みんなで手を取り合って喜び、まさに歓喜の瞬間! といった感じだったのを覚えています。

そんなキラキラした瞬間ではあったのですが、光が強ければ影も濃くなるように、僕は思いっきり、それはそれは腐っていきました。そして、勢いがあり活気漂う空気感に耐えられなくなり「チームを去ろう」という決意をします。

大後監督がくれた「お前はチームに必要」

神奈川大学陸上競技部の合宿所は3階建て。1階には走りに行く前にストレッチ等ができる広めのエントランス、食堂、大浴場があり、2、3階が居住スペースです。そして外の様子やエントランスの様子が見渡せる、玄関を入ってすぐの場所に監督ルームがあります。

「もしか設楽」をやることになってから訪問した合宿所。左は同期のキャプテンだった下里和義(現・プレス工業ヘッドコーチ)

箱根駅伝が終わって4年生が引退し、少し落ち着いてきた3年生になる直前の3月、監督ルームのドアをノックしました。正直、大後さんと面と向かってちゃんと話をするのは、後ろめたい気持ちで避けていたのもあり、かなり久々だったと思います。

「退部させてください」

この言葉とともに自然と涙が出ました。

箱根駅伝を夢見て、プラウドブルーのユニフォームにあこがれ、大後さんに直談判するために周りの人達に頑張ってもらい、ギリギリ12番目、やっとの思いで入った神奈川大学陸上部をやめる。この発言を自分の口からするのはつらく悲しく、そして大後さんになんて言われるのか分からないのもあり、メチャクチャ緊張してたのをいまでも思い出します。

そんな僕に、大後さんはこんな言葉をくれました。

「チームというのは走れるやつだけじゃない。いろんな事情で走れないメンバーの気持ちが分かる萩原はチームに必要」

深層心理では「やめたくない」と思っていました。でも自分は「チームに必要ない存在」だという思いが勝っていたので、「チームに必要」という大後さんのこの言葉を聞けて、少しホッとしたのを覚えています。

なんというか、自分から言いに行ったものの、ギリギリ戦力外通告を受けなかった……という感じでした。

卒業までやる覚悟、衝撃のシード落ち

「走れなくてもチームに必要」

この言葉の本当の意味は4年生になってから分かっていくのですが、当時の自分は、ちゃんと意味を理解していませんでした。あまり言いたくはないですが完全に腐っていたので、「ふぅ〜戦力外通告は免れた〜」くらいに捉えていたと思います。

監督から「チームに必要」という言葉をかけられて、キラキラとした演出で人が変わっていく。そんな漫画みたいな変身を遂げることはなく、相変わらずのループを過ごしながら3年目がスタート。まぁまぁの発言力も出てくる3年生という立場で、まぁまぁの腐りっぷりを見せていたので、当時の4年生キャプテン浅尾英さん(ひでし、現・神奈川大学コーチ)には、かなり迷惑を掛けていたなと反省しています(笑)。

ただ、やめるやめないの思考回路は完全になくなっていて、「卒業までやる」という覚悟だけは芽生えていました。そして練習でも、ぬけぬけ病っぽい症状と2年も付き合っているうちに、なんとなくどういうときに発症し、どういうときにならない、というのも分かってきて、徐々に練習参加頻度も多くなっていきました。

僕がこんなでも、同期の仲が悪くなることはありませんでした(写真は卒業旅行の沖縄)

そして迎えた3回目の第79回箱根駅伝。神奈川大学は11位でシード落ちしてしまいます。

優勝経験メンバーが4年生に残っていた1年、往路優勝をした2年と優勝を目指すチームだったので、シード権獲得は当たり前。もちろん走るメンバーではなかったですし、おそらくチームの1番下の方に位置していた僕ですらそう思っていたので、「こんなことが現実に起こるのか」という衝撃がチーム全体に走りました。

「予選会スタート」という、選手側は誰も経験したことのない初めての宿題を抱えながら、4年生というチームを作り上げる立場になります。そして中学から始まった10年間の競技生活、最後の1年がスタートしていきました。

私の4years.